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| 草花蒔絵螺鈿洋櫃=ポルトガル国立古美術館所蔵、島根県立古代出雲歴史博物館で展示中 |
和上豊子(石見銀山ガイドの会)
ポルトガルの首都リスボンの中心街に「Rua da Prata」(銀通り)と呼ばれる一角がある。その名のとおり、十六世紀ごろから長らく銀の取引でにぎわった、いわば「ポルトガルの銀座」で、今も銀製品を扱う老舗が並ぶ。通りをしばらく歩くとテージョ河口が目前に開ける。帆船を模した「発見の記念碑」のへさきには、大航海時代の立役者エンリケ王子の彫像が、はるか大西洋の海原を見つめて立つ。
開催中の石見銀山展で、ポルトガルから貸し出された銀の古美術品を見るうちに、数年前の旅の記憶が鮮やかに浮かんだ。中でもひかれたのが、蒔絵(まきえ)に螺鈿(らでん)細工が施された洋櫃(ようひつ)だ。日本からポルトガルへ輸出された銀金具付きのそれは、東西の文化交流を生き生きと物語るように見えた。
ポルトガルは、日本が初めて出会った西洋である。一五四三年、中国船に乗ったポルトガル人が鹿児島県種子島に漂着し、領主・種子島時堯は彼らから鉄砲を買い取った。その取引に使われたのが銀である。石見銀山で産出された銀だったかもしれない。神屋寿禎による石見銀山の発見(一五二六年)から間もない時期で、当時日本で本格的な銀生産が行われていたのは石見銀山だけだった。
ポルトガル人は何の目的で、どのようにして日本とかかわることになったか。それは銀の存在を抜きにしては語れない。
マルコ・ポーロの「東方見聞録」により、『黄金の国ジパング』の存在はすでにヨーロッパで知られていた。
十五世紀、オスマン帝国が東西貿易を制するようになり、ポルトガルは新たな交易ルートの開拓に迫られた。折しも航海技術は飛躍的に発達し、カトリック教会では新世界での布教活動を推し進めようとしていた。
ポルトガルは、交易と布教を目指し東へ進み、一五一一年にマラッカを制し次の狙いを中国に定めた。しかし、中国沿岸から閉め出され、揚子江の河口付近で密貿易を繰り返すうちにたどり着いたのが日本なのである。
そこは『黄金の国』ならぬ『銀の国』だった。
ポルトガル人は日本が驚くべき銀産国と知るや、絹や生糸を求める日本と流通貨幣として銀を求める中国との仲介役を買ってでた。中国で生糸を求めて日本で銀に換え、日本の銀で再び中国の絹織物や陶磁器、東南アジアのコショウを求め、本国に持ち帰るという三角貿易を行い、莫大(ばくだい)な富を得た。
十七世紀のキリスト教禁教と鎖国に至るまでの約一世紀、ポルトガル人の手で海を越え、異国へと渡った石見銀は、モノと文化と、歴史をも動かしたのである。
('07/08/08 無断転載禁止)
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