(7)元和年間石見国絵図

元和年間石見国絵図 最盛期の姿リアルに描く

江戸時代初期、石見銀山の最盛期を描いた「元和年間石見国絵図」の柵内部分。道沿いに立ち並ぶ家屋が、都市の活況をほうふつさせる=浜田市教委所蔵
 江戸時代初期の元和3(1617)年から同5年の間に、徳川幕府の命で津和野藩主・亀井氏が製作した「元和年間石見国絵図」(浜田市教委所蔵)。そこには、シルバーラッシュに沸き立つ最盛期の石見銀山(大田市大森町)の姿が、極彩色でリアルに描かれている。

 大森の町並みはまだない。幕府は銀山本体を天領とし柵(さく)で囲った。柵内には山吹城に天守閣、その直下に御銀蔵を配置。仙の山周辺に記された四角の中に「まふ」と書かれ、間歩(まぶ=坑道)と分かる。銀山川沿いなど主な道の両側に、びっしりと家屋が林立する。

 元和の絵図は最古の石見地図。幕府が銀山の状況をつかむために作らせた可能性があり、にぎやかさや華やかさを、ほうふつさせる。

 文献資料によると、栃畑谷には、京都の呉服物を売ったとみられる「京店」が誕生。山吹城下では「魚店」が日本海で捕れた大量の魚をさばき、人々の胃袋を満たした。

 銀山最盛期の人口をめぐっては、3万人とする説や10万人説があり、謎だが、国内屈指の大都市だったと言えそうだ。そうした一大消費地に薩摩や博多、大坂などの商人が流入。米、たばこ、酒、中国陶磁などが飛ぶように売れた。

 「仙の山の繁栄が周辺にも広がった。絵図は石見国全体が銀を取ることで栄えた事実を示している」。石見銀山資料館の仲野義文学芸員(39)が強調する。

 幅1・7メートル、長さ3・5メートルの絵図を見つめると、銀山本体以外に、久喜(邑南町)、都茂(益田市)、笹ケ谷(津和野町)など7カ所を「銀山」と記載。仲野さんは「7カ所以外にも、小さな銀山がたくさんあったのだろう」と分析。当時、石見で盛んに行われたたたら製鉄による鉄製品と、豊かな森林が生み出す炭が、鉱山開発を優位に展開させたとの実像を描く。

 銀を中心とする資源を有効活用し、繁栄を享受した石見国。「いくつもの銀鉱山がある王国」という表記は1568年、ポルトガル人が作った日本図の中に、石見の国名として登場。石見国のばく大な富が、ヨーロッパにも鳴り響いていた史実を今に伝える。

2005年1月11日 無断転載禁止