講演「石見銀山遺跡取材ノートから」

石見銀山の世界遺産登録への課題などを話す引野道生山陰中央新報社報道部担当部長
講演「石見銀山遺跡取材ノートから」
 引野道生・山陰中央新報社報道部担当部長

 1996年11月から半年間、石見銀山の世界遺産登録を考える記事を連載した。取材班の責任者として、石見銀山を取材し始めたが、とても奥が深く、完全にはまってしまい、今も銀山を追い掛け、なぞを解く旅を続けている。

 石見銀山は4年前、国の世界遺産候補に選ばれた。2007年6月に開かれる国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会で、世界遺産に登録される見通しだ。

 しかし、登録後を考えれば、遺跡が持つ価値の普及啓発、調査研究、受け入れ態勢づくりなどすべてはこれから。

 石見銀山遺跡は、大田市大森町にあり、戦国時代後期から銀鉱石が採れた石見銀山本体と、大内、尼子、毛利らの戦国武将が銀山の領有を争った山城、銀の積み出し港となった仁摩町と温泉津町の港、さらに港と銀山を結ぶ街道を含む。面積約370ヘクタール。国内でも屈指の史跡だ。

 石見銀山で起きた最大の出来事とは何か。それは1533年、銀山を見つけた博多の豪商・神谷寿禎が日本で初めて銀精錬のハイテク・灰吹き法の導入に成功したこと。この技術が石見ではぐくまれ、国内に広がった結果、日本は世界に冠たる銀産出国になった。大航海時代の真っただ中。石見銀山が開発されてからわずか2年後、宝の山となった銀山の情報は異国にも鳴り響き、唐土、高麗、天竺(てんじく)ばかりか、ヨーロッパの人々にも認識されていた。

 ヨーロッパで作られた日本が描かれた古地図に、日本とヨーロッパの政治経済や文化に大きな影響を与えた事実を示す証拠がある。ポルトガル人のドラードが、1568年に作った「日本図」の石見の位置に、ポルトガル語で「いくつもの銀鉱山があった王国」と記されている。銀山の情報を伝えたのは、キリスト教の宣教師。ポルトガルはこの海図を国家機密にする。だが、オランダが派遣した貿易船、リーフデ号に積まれていた海図にも石見銀山の記述があった。徳川家康は関ケ原の戦いでリーフデ号の大砲を使った。勝った家康は10日後に素早く石見銀山を押さえている。

 リーフデ号の日本来航は偶然の産物ではなく、日本の銀、石見銀を知り、まず石見銀の入手を目指したとみたい。リーフデ号来航の結果、何が生じたか。鎖国だ。幕府はポルトガル船の来航を禁じ、1639年に鎖国体制が完成。オランダは日本銀を使う東アジア貿易を独占した。貿易の見返りに払われたのが、石見がスタートとなった銀だ。

 世界遺産登録には、遺跡の保存体制の確立などいくつかの課題がある。 銀山の最大の魅力は、約450年前の戦国時代からの遺構が極めて良い状態で残されているという点。だが、銀山の中枢である仙の山は鉱山都市の存在を示すようなびっくりさせる景観がない。遺跡の今後の活用策について、史実を知っている人がガイドしながら遺跡を歩けるようにするシステムを作るべきだ。解説しながら仙の山山頂から、戦国時代に銀が採れた福石鉱床の間歩が集中する本谷を降り、石見銀山最大の間歩・大久保間歩に入れるようにしたい。ガイドは有料で、遺跡の保全基金として使いたい。

 見学コースは、戦国時代の風景をそのまま残す温泉津町・沖泊の港なども入れる。銀山に関連する遺跡の特徴は、まさに野外博物館。世界遺産としての本質を知ってもらうシステムも必要だ。町並みに車を入れないシステムや拠点施設の場所、内容などを地元で議論することが必要な時期に来ている。遺跡と情報発信をたえずグレードアップさせるために調査研究部門の設置も欠かせない。
(2004年12月31日掲載)

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こども新聞