(9)山吹城跡

山吹城跡 「宝の山」防御の中心地

雪を冠した要害山。山頂に築かれた山吹城は、石見銀山争奪戦の要となり、大規模な遺構が残る=大田市大森町
 吹雪の合間、大田市大森町と仁摩町大国にまたがる要害山(標高四一四メートル)が、くっきりと浮かび上がった。山頂に位置するのは山吹城跡。大内、尼子、毛利ら戦国武将が繰り広げた石見銀山の争奪戦を左右した拠点だ。戦国時代後期、石見銀は軍資金に充てられ、銀山を取るか、取られるかが、武将の命運を握った。

 山吹城は、天文二(一五三三)年、周防など七カ国の守護、大内義隆が築城した。この年、石見銀山を開発した大内方の博多の豪商・神谷寿禎が日本で初めて、銀製錬のハイテク・灰吹き法を石見銀山に導入。銀の増産にわく宝の山の防御は、義隆の最重要課題であった。

 山頂の主郭(南北五十二メートル、東西三十三メートル)に立つと、要害山に築城した理由が一目で分かる。戦国後期、鉱山都市が実在した仙の山(標高五三七メートル)山頂付近の石銀地区が、目前に広がる。石銀で戦など異変が生じれば、即座につかめた。

 島根県中世史研究会会員で大社高校教頭の山根正明さん(57)は、山吹城の特異性を「堅固な城だとアピールするため、見られることを意識して施設が造られた」と解説する。

 大森側から登ること三十分。山頂に近付くにつれ、こう配が険しくなる。山城の東西斜面はまさに絶壁。城に通じる南北の尾根には地形を巧みに利用し、主郭の北に四段、南に三段の郭(くるわ)がそれぞれ削り出されている。

 主郭北の郭に、石垣を積んだ出入り口の虎口(こぐち)を設け、南端斜面には十九本の竪堀を扇状に配置。虎口と竪堀群は、城下から見上げる人々に威圧感を与えた。

 主郭には、三百六十度のパノラマが眺望できる利点を生かし、烽火(のろし)などを用いて軍を動かす戦闘指揮所のやぐら台もあった。外敵の侵入を阻む幅十メートル、深さ二メートルの空堀は、四百五十年前の姿をとどめており、攻守の軍勢が入り乱れた激戦を生々しく証言する。

 争奪戦は、享禄四(一五三一)年から実に三十二年間に及ぶ。山吹城の要所要所の施設は、戦乱で城の主が目まぐるしく交代するたびに創意工夫を重ね、天然の要害に磨きを掛けたのだ。

 石見銀山遺跡では、矢筈(やはず)城や矢滝城、石見城の山城も築かれている。有事の際は山吹城を拠点に、城のネットワークを通じて情報を伝達。銀山本体と街道を一体的に押さえようとした武将の戦略を今に伝える。

2005年3月15日 無断転載禁止