(10)清水谷製錬所跡

清水谷製錬所跡 坑道再開発壮大な面影

かれんな梅の花が春の訪れを告げる清水谷製錬所跡。明治期、最新式の技術を駆使し銀生産を担った=大田市大森町
 早春の陽光に包まれ、梅の老木やこけむした石垣が彩りを深める。仙の山北側に位置する大田市大森町の清水谷製錬所跡。戦国時代後期以降、さまざまな遺構が層をなす石見銀山遺跡の中で、明治期の銀生産を担った代表的な近代遺産だ。

 大田市石見銀山課長の大国晴雄さん(49)は「お雇い外国人ではなく、西洋文明を学んだ日本人の技術力で、銀山を再開発しようとした」と位置付ける。

 清水谷製錬所は、同和鉱業の前身に当たる大阪の藤田組が建設。東京帝国大採鉱冶金(やきん)学科を卒業、赴任した武田恭作が設計し、明治二十八(一八九五)年四月から操業を始めた。

 製錬所の建物は残っていないものの、現在価格にして約二十億円に上る巨額の設備投資に踏み切った事実が、当時の大森鉱山にかけた藤田組の意気込みを伝える。酸やアルカリ溶液でいったん、鉱石から銀を溶かした後に、銀を取り出す収銀湿式製錬という最新式の技術が投入された。

 最上段に立つと、遺跡の大きさに驚かされる。谷の斜面を利用して八段の石垣が築かれ、高さは三十三メートル、面積六千七百五十平方メートル。各段の上に建物を設け、上から下へ鉱石を降ろしながら順次、製錬が行われた。

 清水谷に製錬所を設けた狙いは、江戸初期、仙の山の中枢・本谷地区に掘られた銀山最大の坑道・大久保間歩の再開発だった。

 大久保間歩の銀鉱石を下の金生坑に落とし、トロッコで金生坑から蔵之丞(くらのじょう)間歩のトンネル部分八百メートルを経て、製錬所の最上段に運んだ。電力がない時代、銀鉱石の運搬に多くの労力が費やされたが、江戸期の坑道をうまく活用した技術者の知恵を伝える。

 鉱石の品位が予想より悪く不採算となったため、清水谷製錬所はわずか一年半で操業を中止。藤田組は、鉱業の主軸を仁摩町大国の永久製錬所での銅生産に切り替えた。

 約四百年に及んだ石見銀山の歴史。暗やみの金生坑に残るトロッコ道のレールや清水谷の遺跡を見るとき、母なる仙の山に全山くまなく人々の開発の手が入った軌跡をほうふつとさせる。

(文・引野道生、写真・小滝達也)

2005年4月5日 無断転載禁止