(11)釡屋間歩と謎の岩盤遺構

向かって左が釡屋間歩、右が謎の岩盤遺構。双方とも江戸初期、一体的に開発され、石見銀山史上最多の銀生産を誇った=大田市大森町
 釡屋間歩と謎の岩盤遺構
  一体的に開発 採掘迅速化

 半年ぶりに足を運ぶと、遺構の持つすごみが一段と増していた。大田市大森町の仙の山東側にある本谷地区。江戸初期、鉱山師・安原伝兵衛が掘り当てた釡屋間歩(かまやまぶ)と、北側の謎の岩盤遺構を覆うコケや表土が除かれ、岩肌に残るのみ跡が生々しい。

 釡屋間歩は、年間3600貫(13.5トン)の運上銀(税金)を徳川幕府にもたらし、年間総生産量は67.5トン。発掘調査の進展などから、石見銀山史上、最多の銀を産出した秘訣(ひけつ)が解明されつつある。

 備中早島出身の安原は、仙の山の清水寺に祈願した夜、霊夢を見て釡屋間歩の開発に着手。莫大(ばくだい)な銀を手に入れ、慶長8(1603)年8月、京都の伏見城で徳川家康にお目見えを許された。

 安原は1.8メートル四方の台の上に石見銀を蓬莱(ほうらい)山の形に積み上げ献上。豪壮華麗な演出に狂喜した家康は、自ら着ていた「辻が花染丁子(ちょうじ)文胴服」(国重要文化財)と「備中」の名を与え、安原が感涙にむせんだと徳川実紀が伝える。

 石見銀山資料館の仲野義文学芸員(39)は、釡屋間歩での成功の背景に「幕府による3つの新たな鉱山開発システムの導入があった」と分析する。

 一体的に開発された釡屋間歩と謎の岩盤遺構とも、坑道の入り口前に建物を設けた跡がある点で一致。この場所で鍛冶(かじ)屋が、銀の採掘に使われたのみやたがねを鋳直し、採掘作業を迅速化したとみられる。

 さらに、初代石見銀山奉行の大久保長安が幕府の公金を使って安原の開発を支援。「横相(よこあい)」と呼ばれる水平坑道の技術により、豊かな鉱脈を次々と掘り当てることができ、シルバーラッシュを加速させた。

 自伝書によれば、安原は1000人に及ぶ労働者を抱えており、戦国時代の小規模経営から江戸初期、大規模な鉱山経営に転換した実像を示す。

 安原の墓所は、本谷と交差する安原谷の小高い場所にある。谷一帯の眺望が開ける地に眠る姿は、死してなお、銀山の繁栄を祈り続けた安原の思いを感じさせる。

2005年5月10日 無断転載禁止