(17)鵜丸城 温泉津守護する要の城

櫛島から望む鵜丸城跡。沖泊の入り江には船の係留に使われた鼻ぐり岩が多数残り、港と一帯となった海城の往時をほうふつとさせる=大田市温泉津町
 寒風に海鳴りがこだます大田市温泉津町の巌頭。岬に立つ温泉津港灯台から、180度に広がる日本海の海原と島根半島、温泉津と沖泊の港、さらに矢滝城山を望んだ。この眺望こそ、安芸の戦国武将・毛利元就が元亀2(1571)年2月、同地に毛利水軍の基地・鵜丸城(うのまるじょう)を築いた狙いを物語る。

 「元就は温泉津を西日本水運の拠点に活用し、国際貿易の利益を生み出しながら軍事力増強を図った。鵜丸城は温泉津を守護する要の海城」。石見銀山資料館の仲野義文学芸員(41)がこう位置付ける。

 石見銀山をめぐる出雲の尼子氏らとの合戦を制した元就は、永禄5(1562)年2月、銀山を領有し、2年後には温泉津を直轄港として支配。石見銀を赤間関(下関)に運び、ポルトガルなどとの貿易で最新兵器の鉄砲を手に入れた。

 鵜丸城の斜面でやぶをかき分け、扇状の平たん面を見つけた。北側には約150メートルに及ぶ大規模な帯郭(おびくるわ)を3段配置。沖泊側の大手を見下ろす形で、ひな壇のように銃陣を敷いた姿は、入港者を圧倒したに違いない。

 元就は、石見銀山から莫大(ばくだい)な軍資金を獲得し、中国地方きっての難攻不落ぶりを誇った尼子氏の居城・月山富田城(安来市広瀬町)を、延々3年間に及ぶ籠城(ろうじょう)戦の末、永禄九(1566)年11月に陥落させ、尼子氏を滅亡させた。

 鵜丸城は、永禄12(1569)年6月、山中鹿介らが尼子復興戦に乗り出した事態を受け、わずか1カ月間で築城。元就は沖泊から軍船200隻を派遣し、安来の十神山城を急襲し、奪還に成功するなど、海城の威力を存分に発揮。尼子再興の道を阻んだ。

 山陰の名将・尼子氏を2度にわたる敗北に追い込んだ毛利元就。灯台に吹く海風が、石見銀山と温泉津、鵜丸城をセットで活用した元就の周到な戦略を際立たせた。

2006年1月31日 無断転載禁止