(24)水ケ迫 逸話残るいにしえの道

銀山街道鞆ケ浦道の中でも、16世紀前半のたたずまいが良好に残る水ケ迫地区。沿道に石見銀にまつわる多くの物語が伝わる=大田市仁摩町大国
 冠川のせせらぎに別れを告げ、山道をたどる。130メートルの標高差を登ると、噴き出す汗が心地よく、尾根筋の道に陽光が降り注ぐ。

 大田市仁摩町大国の水ケ迫。銀山本体と、銀の積み出し港として利用された鞆ケ浦(ともがうら)を最短で結ぶ銀山街道鞆ケ浦道(7・5キロ)の中でも、石見銀山が開発された初期、16世紀前半のたたずまいを色濃く伝える。尾根道は幅2メートルに広がり、土を突き固めたり、土橋のように加工された跡がうかがえる。

 博多の豪商・神谷寿禎が1526(大永6)年、石見銀山を発見。わずか2年後には「宝の山」の情報が海外に伝えられ、大田沖に東アジアの外国船が到来。続くシルバーラッシュの波により、鞆ケ浦道は脚光を浴びた。

 しかし、世界遺産登録に向けた鞆ケ浦道のルート特定は困難を極めた。街道調査に携わった「石見銀山遺跡の世界遺産をめざす会」理事を務める多田房明さん(47)=同市仁摩町=は「人が歩かず、幻の街道になっていた。幾度も暗礁に乗り上げそうになった」と打ち明ける。

 草をなぎ払い、道を探す難局を切り開いたのは、銀にまつわる生々しい伝承と遺物だった。

 水ケ迫を越えた上野地区にたたずむ胴地蔵。銀鉱石を運ぶ途中に盗んだ馬子が首を切られ遺体が埋められたとされる。地蔵に寄り添うようなシイの古木は切るとたたりがあると伝わる。

 上野地区を越えると昼でも暗い五輪原。銀山の領有を争った戦国武将の尼子氏と毛利氏の古戦場で、合戦の死者を弔う石塔が現存する。

 「上野千軒」と繁栄がたたえられた同地区に、二重の石垣の上に立つ小笠原家屋敷があった。銀山争奪戦の鍵を握った山吹城の御典医を務めた家柄という。

 尾根上から東南を振り返ると、山吹城が築かれた要害山と銀が採掘された仙の山が一望できる。戦国乱世の数多くの物語に彩られた鞆ケ浦道は、石見銀が海を越え、アジアに広がる懸け橋となった歴史を、大地に静かに刻む。

2006年9月26日 無断転載禁止