(1)松江を開いた堀尾氏・其の一

 「松江開府400年」企画、第1章は「松江を開いた堀尾氏」。松江を開府した堀尾氏を知ってもらおうと、現在に残る堀尾氏の面影をカメラに収めた。第1回は開府の祖・堀尾吉晴と子どもたちの木像。戦国武将・堀尾氏の生きざまを想像してほしい。


【松江城と周辺】亀田山の山頂に築城された松江城。吉晴は亀田山の北部、現在の護国神社(天守閣の右手)あたりに仮御殿を設けて築城に携わったといわれる=2007年5月撮影
“戦国の勝ち組”が築城

 1600(慶長5)年10月21日、日本の武将たちが東西に分かれて戦った関ケ原の戦いは、戦国時代の総決算だった。その中で堀尾氏は、徳川家康の東軍に参加して勝ち組になった。

 その恩賞で「松江開府の祖」、堀尾吉晴(1543-1611年)と、すでに家督を継いでいた子の忠氏(1577-1604年)の親子が、出雲・隠岐両国24万石の領主になり、月山富田城(安来市広瀬町)に入城した。

 その後、吉晴は出雲地方統括の拠点をより広い平野で、近世城下町が建設できる松江に移ることを決める。松江城の築城に着手したのは1607年。現在の松江のまちづくりは、このとき始まった。

 尾張(現在の愛知県大口町)に生まれた吉晴は、豊臣秀吉と出会い、戦国武将として活躍、歴史に名を刻んだ。

 浜松城などの城主を歴任、また多くの築城にもかかわった吉晴は、普請上手ともいわれたが、松江城の完成目前に死去した。

 松江市が、松江藩の「初代藩主」とした忠氏ら子どもたちも早死にし、残された孫忠晴(1599-1633年)も、嫡子に恵まれず堀尾家は3代で途絶えた。


【御霊屋の木像】後列左は忠氏夫妻。右は吉晴の親・泰晴夫妻。前列2体は吉晴の娘たち=京都市左京区、妙心寺春光院
【吉晴と妻の木像】京都の堀尾家菩提(ぼだい)所にある吉晴と妻の木像。吉晴は関ケ原の合戦を前に負傷、その時、家督を忠氏に譲る。昨年、松江市では松江城を築城した最大の功労者として吉晴を「開府の祖」、忠氏を松江藩の「初代藩主」と決めた。吉晴は松江城の完成を目前に亡くなったが、吉晴、忠氏ともに初代城主と位置づける意見がある=京都市左京区、妙心寺春光院仏間
【忠晴夫妻の木像】1634年、35歳の若さで亡くなった忠晴と妻の木像。以前は春光院にあったといわれている。その後、忠晴の墓がある円成寺に移された=松江市栄町、円成寺
【堀尾祭】毎年11月6日、堀尾吉晴と忠氏、忠晴の堀尾家3代の供養祭が堀尾会(鷦鷯修一会長)などの主催で菩提所円成寺で営まれている。昨年は吉晴の生誕地、愛知県大口町から堀尾史蹟顕彰会(大竹喜久雄会長、2000人)が開府400年を記念して円成寺の門幕を新調するとともに、約200人の会員が訪れた。写真は、法要を終え門幕を背に石段を下りる顕彰会会員ら=松江市栄町、円成寺
【謎の人物「金助」】吉晴と金助の関係は長男の実子説、いとこ説、養子説などがあり謎の人物といわれている。一般には小田原の戦に出陣、18歳の若さで亡くなったわが子を思う母の情愛を描いた“裁断橋物語”の主人公として全国に知られる。擬宝珠(ぎぼし)に刻まれた銘文は「日本女性三名文」に挙げられている=京都市左京区、妙心寺春光院仏間

2008年1月1日 無断転載禁止