(2)松江を開いた堀尾氏・其の二 菩提所・円成寺

 松江を開いた堀尾氏の歴史についてもっと知りたい。しかし資料を読むのは苦手だ。そんな人たちに格好の場所が松江市栄町にある堀尾家3代の菩提(ぼだい)所、円成寺だ。

晋山式が行われる本堂
本堂正面には吉晴(左)と忠氏の肖像が描かれた二幅の掛け軸。奥の廟(びょう)所には忠晴夫妻の木像と堀尾氏三代の位牌(いはい)が安置されている。同寺の縁起について話をしていただいた若槻大峰住職(右)と今秋17代目を継ぐ大浩さん=写真はいずれも松江市栄町、円成寺
 本堂に入って見上げると、梁(はり)の上に飾りがある。いずれも家紋で、図柄は5種類。円成寺の若槻大峰住職(77)は「家紋で堀尾家の歴史の一端を目で見ることができる貴重な財産」と話し、ルーツは天皇家ともかかわりがあった可能性もあるという。今回はそんな円成寺を訪ねてみた。

家紋で分かる3代の歴史

 月山富田城(現安来市広瀬町)に入城した吉晴は1611(慶長16)年、松江への移城にあたり富田にあった菩提寺を洗合(現松江市外中原町)に移し、新たに瑞応寺(現天倫寺)を建立して堀尾家の菩提寺にした。

 その後、3代・忠晴が亡くなり堀尾家は断絶。京極忠高が藩主になり、1635(寛永12)年、瑞応寺は現在の場所に移るとともに、忠晴の法号にちなんで「鏡湖山円成寺」と改める。

 瑞応寺、円成寺ともに開山したのは浜松から吉晴とともに移り、「松江」の命名者ともいわれている春龍(しゅんりゅう)和尚で、円成寺は春龍和尚が別荘として建てた「臨江庵」跡。庭園にある「来待石六地蔵灯籠」は2メートル近くもある立派なもの。400年の風雪に耐え、今でも重厚な姿は往時の面影を残している。

 境内の墓地で探し求めた忠晴の墓は、奥の石段を上った先にある。さらに石段を上った先にある祠(ほこら)は、吉晴と親交が厚かった加藤清正の寄進という。古くから火除稲荷(ひよけいなり)として知られ、今でも多くの住民が祈願に訪れる。さらに石段を上ると宍道湖が一望できる眺望が自慢の山頂に出る。

 現在は右にマンション、左にガラス張りの松江警察署。その中央に嫁ケ島が湖上に窮屈そうに納まっているが、かつて別荘だったという円成寺の昔を満喫するには、まだまだ十分のロケーションだ。

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 松江開府400年祭が始まった昨年、円成寺もこれまでにない忙しさだった。今年は住職が交代する晋山式(しんざんしき)が行われる。10月12日、現住職から長男の大浩さん(45)にバトンタッチされ、17代目が誕生する。400年祭の盛り上がりとともに、今年の円成寺はさらに忙しさを増すことだろう。


五七(ごしち)の桐(きり)
3枚の葉の上に3本の枝。中央には7輪、左右には5輪の花がある。一般には「五三の桐」が多い。天皇家に縁がある紋だが、堀尾家とのかかわりは不明という。一説には豊臣秀吉が授かったものともいわれている

抱茗荷(だきみょうが)
堀尾家の先祖・高階家から受け継がれ、堀尾家の中でも当初使用されたといわれる。関ケ原の戦い当時も抱茗荷の紋が使われていたようだ

法馬(ほうま)
丹波・但馬などで多くの功績をあげた堀尾氏が秀吉から賜ったといわれ、戦場での旗印だった。法馬は両替てんびんの重りに使った分銅(ふんどう)のことで一般的には分銅紋と呼ばれる

六目結(むつめゆい)
結いは協力や団結の意味がある。いつから堀尾家の紋になったかは定かではないが、忠晴のころに多く使われたといわれている

寺紋
円成寺の紋は堀尾家の家紋の「分銅」と「六目結」を並べている

2008年1月7日 無断転載禁止