(4)松江を開いた堀尾氏・其の四 墓所・岩倉寺

 吉晴の墓 墓の前で法要を営む堀尾史蹟顕彰会(前田道孝会長)の会員ら。昨年の堀尾祭には吉晴の生誕地、愛知県大口町から151人が訪れた=写真はいずれも安来市広瀬町、岩倉寺
月山富田城に眠る吉晴

 「墓は月山に」と言い残して亡くなったと伝えられる堀尾吉晴。墓は遺言通り、月山富田城内の岩倉寺(安来市広瀬町)に建てられた。本来、「巌(いわ)」の字があてられる岩倉寺は1187(文治3)年に富田川上流、山佐の地から現在の場所に移築され、戦国武将として名を成した尼子氏をはじめとする歴代富田城主の祈願所として守られてきた。

 堀尾氏が城主になってからも、当然のごとく手厚く加護してきたことは想像ができる。そして吉晴が一番思い出深い場所として、月山を墓所に選んだ心情も察することができる。そんな吉晴と深いかかわりがある岩倉寺を訪ねた。

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 吉晴の墓を訪れるのは今回で2度目だ。昨年10月に催された堀尾祭から3カ月。墓の傍らで咲く桜は、初冬から数カ月にわたって咲き続ける四季桜。再び訪れた時も桜は墓守のようにかれんな花を咲かせて出迎えてくれた。

 松江石造物研究会(代表・岡崎雄二郎松江市歴史資料館準備室顧問)の調査によると、墓の高さは基壇を含めて467.5センチ。石垣を積んだ基壇に建つ五輪塔の高さだけでも3メートル以上ある。山陰一の規模という。

 厨子 大きさは幅120センチ、奥行き95センチ、高さは3メートル以上。薄暗い本堂の中にある厨子は色あせることもなく鮮やかな昔の極彩色の姿をとどめている。中には平安前期の作と伝えられるヒノキの一本造りで行基作といわれている本尊の聖観音菩薩(重要文化財)を中心に、脇侍の帝釈天(同)と多聞天の3体が安置されている
 本堂の前に建つ鐘楼に立つと、富田城攻撃で毛利氏が拠点にした京羅木山が正面にそびえ、眼下には富田川を挟んで広瀬の町並みが一望できる。境内には山中鹿介の供養塔、吉晴の二女小那姫の墓、お家騒動を起こして処罰された堀尾河内とその子の親子観音などが点在する。

 荒木清剛住職の話を聞いていると、合戦に明け暮れた戦国武将たちの姿が時代絵巻のように脳裏を横切っていった。

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 吉晴と岩倉寺の深いかかわりを象徴するものに本殿の厨子(ずし)がある。吉晴の妻が国家安全、子孫繁栄、武運長久を祈願して寄進したもので、厨子の扉や屋根の下は色鮮やかな極彩色の輝きを現在も放っている。その豪華な造りは松江城築城にも携わった大工の造りといわれている。

 岩倉寺は出雲霊場18番の古刹(こさつ)としても知られ、現在も訪れる信者が後を絶たない。今に残る貴重な資料、遺物、風景を前にして歴史ロマンをかき立てられたのは自分だけだろうか。



 棟札 「慶長七(1602)年」の年号や浜松から連れてきた大工の名前が残る棟札と荒木清剛住職
 石柱の地蔵尊 吉晴の墓の右前に建つ。地蔵尊の表面は風化が進み、顔や衣の様子はよくは分からないが、松江市の堀尾家菩提(ぼだい)所、円成寺にある六角地蔵灯籠(とうろう)を連想させる

2008年2月11日 無断転載禁止