(3)松江を開いた堀尾氏・其の三 もうひとつの菩提所・春光院

 堀尾家の菩提(ぼだい)所は松江市のほかにもう1カ所ある。場所は京都市右京区花園妙心寺町の妙心寺春光院。春光院は堀尾吉晴が豊臣秀吉による小田原攻めの時に亡くなった長男、金助を弔うため1590(天正18)年に建立した塔頭(たっちゅう)寺院だ。
 本堂 本堂内陣を前に川上史朗住職から春光院の説明を聞く堀尾氏ゆかりの地巡りの参加者。入り口に法雲院殿(吉晴)と昌徳院殿(吉晴妻)と書かれた木札がある(写真右上)。内陣を仕切っているふすま絵(右後方奥)は狩野永岳の「月と雁(かり)」=写真はいずれも京都市右京区、妙心寺春光院

 同院には吉晴ら一族の木像をはじめ霊をまつる御霊屋(おたまや)、島根県産の来待石製の墓石が多数ある。吉晴の生まれ故郷でもなく、終焉(しゅうえん)の地である松江でもない京都に、堀尾氏の菩提所がある。何故だろう。そんな疑問を抱きながら山門をくぐった。

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 春光院がある妙心寺は、全国に約3500カ寺ある臨済宗妙心寺派の大本山として知られる。境内の広さは東西約500メートル、南北約619メートル、面積は約10万坪。

 広い境内には縦横に道路が通り、住民の生活道路にもなっており自転車や自動車も走っている。駐車場の案内板には40以上の塔頭寺院が描かれており、一大寺院群を形成している。初めて訪れた人はあまりにも壮大なスケールのお寺に驚く。

 一方で妙心寺は日本の芸術、文化のるつぼでもある。国宝の妙心寺鐘は徒然草にも歌われた黄鐘調の鐘。このほか多数の重要文化財(重文)があり、一度は訪れたい寺院である。

 堀尾四代の墓  前列中央の石廟(びょう)には泰晴夫妻の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が納まっている。両サイドの宝篋印塔は左が忠氏夫妻、右が吉晴夫妻、後列右に忠晴の石塔(無縫塔)がある。春光院の来待石製石塔については昨年末、松江市教育委員会が発刊した「松江市歴史叢書」(1000円)に詳しく掲載してある
 春光院にも重文で「1577」の西暦と「IHS」(イエズス会)の紋章が刻まれた南蛮寺鐘や狩野永岳のふすま絵がある。本堂の西側にある「方丈西庭」は吉晴が築造したものという。

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 春光院は建てられた当初、金助の法号にちなんで俊厳院(しゅんがんいん)と命名された。堀尾家が断絶した後、忠晴の息女が堀尾家の菩提を弔うため嫁ぎ先の石川家が施主となり中興し、春光院と改称された。以後、春光院の墓地には堀尾、石川両家の墓が同居することになる。

 同院の堀尾氏関連資料を調査研究をしている松江市の歴史資料館整備室の佐々木倫朗副主任から墓石の説明を聞いた。

 しかし、春光院建立の原点ともいえる金助の墓は「これまでに見つかっていない」という。来待石の墓の経緯も定かでなく疑問を抱いたまま山門を後にした。

 春光院は一般公開はしていないが、事前予約で観覧ができる。


 南蛮寺鐘  本堂にさりげなくつり下げられ、重要文化財とは思えない。川上住職の「たたいてもいいですよ」の言葉に恐る恐るたたいてみた
 常磐の庭 吉晴が創建当時に築造したといわれている方丈西庭。雪見灯籠(とうろう)を配した鶴亀の庭。亀島あたりに桃山時代の面影をとどめているといわれている
 春光院 山門前で記念写真を撮る堀尾公ゆかりの地巡りの参加者たち

2008年1月14日 無断転載禁止