(6)松江を開いた堀尾氏・其の六 石垣の刻印

【中曲輪(なかくるわ)東面石垣】恩田清氏の「松江城石の刻印野帳」には城山二の丸下の段に築かれた南北約200メートルの石垣に約200個の刻印が記入されている。地上からでもたやすく確認できる=松江市殿町(同石垣の中央付近から南方向を眺望する)
 松江城の石垣には、たくさんの刻印がある。築城に参加した家臣や戦友たちが、自分たちが運んできたという証拠に付けた目印だ。

 松江城山公園にある松江郷土館が1999(平成11)年に企画した「松江城石垣と刻印」展を担当した、松江市文化財審議会の中原健次委員、同市文化財課の飯塚康行調査係長の案内で刻印の撮影に出掛けた。

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 現在確認されている刻印の種類は約20種類。島根県史によれば石の数はお城と堀川の石垣を合わせて十数万個。その中で刻印があるのは数百個とも数千個ともいわれている。石は嫁ケ島や大海崎、矢田など近隣地域から運搬されたとされ、大きなものは重さが千貫目(3750キロ)前後もある。

 石の組み方、形状で石垣が築かれた時代が分かるといい、刻印からは堀尾家の人脈、人間関係などを知ることができる貴重な史料でもある。

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 石垣の刻印の研究は、出雲国庁跡の研究者として知られる故恩田清さんの調査記録集「松江城石の刻印野帳」が原点にある。

 67(昭和42)年6月28日、38個の刻印の発見から始まった調査は、その後10年間にわたった。恩田さんの野帳には、刻印の「種類」「位置」「大きさ」が石垣ごとに手描きで記入されている。

 石垣は江戸時代から崩壊と修復が繰り返され、現在も修復が続けられている。そのたびに新たな発見がある。

 刻印の研究も進み、松江のシンボルとして残る松江城を築城した堀尾氏とその家臣の関係も、研究者たちの地道な努力によって徐々に明らかになってきている。

【刻印の一覧】このほか最近になって名前と思われるものや■(○の中に=)、(い)などの刻印も見つかっている
 刻印の解説は郷土史家、島田成矩さんの著書「堀尾吉晴」から抜粋。



[左]【鉞(まさかり)紋】松平忠直の家紋。堀尾吉晴は関ケ原の戦いの前後から徳川家康、秀忠親子の信任が厚く、徳川家および松平家と浅からぬ関係にあった。古くは家康の子、松平(結城)秀康が小牧、長久手の合戦後、人質として大坂城に迎えられた時、吉晴は使者の1人として赴いた

[右]【阿部晴明判紋】魔よけや強運のシンボルとして使われてきた。松江城築城では安全などを祈願して阿太加夜神社(島根県東出雲町)の神主の松岡家が刻印したと推測する

[左]【輪違(わちがい)】堀尾家の家紋。忠晴が担当した大坂城再築の石垣にもある。吉晴の娘が嫁いだ石川家や吉晴の同僚で同じ家紋を使用していた脇坂安治が寄進した可能性が高い

[右]【墨書の雁紋】最も可能性が高い人物は毛利秀就。関ケ原の戦い後、堀尾忠氏は毛利一門のまとめ役になり吉川広家を通して、不戦と人質預かりにかかわり、結果的に毛利の断絶を救った。感謝や和親の意を込めて秀就が寄進したと推測される

[左]【扇紋】堀尾家と縁せきにあった生駒家の家紋。堀尾、生駒両家父子2代にわたり親密な関係だったといい、扇の中に一の字があるのは吉晴の戦友、生駒一正の紋

[右]【分銅紋】堀尾家の家紋だが、石に刻印したのは堀尾氏直系(吉晴・忠氏・忠晴)ではなく、傍系の親族。吉晴の父泰晴の兄弟、吉晴の兄弟姉妹、吉晴の子女たちとみられる

2008年3月10日 無断転載禁止