(8)松江を開いた堀尾氏・其の八 忠氏の墓はいずこ?

新宮谷に残る墓跡
物差しを使い石の大きさや間隔を計る松江石造物研究会の会員ら。平たん地の広さは東西12メートル、南北13メートル。飛び石の先にある立石が墓の跡といわれている=安来市広瀬町中光寺
石垣
墓跡の三方は立派な石垣が組まれ、現在も往時の面影を残す。規模からして相当権力のあった人の仕事であることには間違いない=安来市広瀬町中光寺
報恩寺の宝篋印塔
忠氏の墓という寺伝が残る。来待石で造られた総高2・70メートル。相輪、塔身、基礎ともよく残っている。同寺には堀尾家の重臣、堀尾民部の墓もあり、堀尾氏と関係が深い寺であることは確かである=松江市玉湯町、報恩寺
堀尾忠氏像(京都市・妙心寺春光院所蔵)
 ピンポール(測量棒)を地面に突き刺し、地中に等間隔に埋まっている石を確認しながら「礎石くさいな」と松江石造物研究会代表の岡崎雄二郎さんがつぶやく。傍らでメンバーの西尾克己さんが「この飛び石も礎石を利用したのでは」と思いを巡らす。

 ここは安来市広瀬町中光寺。古くから初代松江藩主・堀尾忠氏の墓があったといわれている場所。しかし、現在は墓石とは思えない大小の石が残るだけ。島根県でも以前トレンチ調査をしたが、墓の痕跡はなかったという記録が残り、真偽のほどは今もって分かっていない。

 松江石造物研究会のメンバーが現地調査を行うというのを聞き、同行した。案内をしてくれたのは安来市教育委員会の舟木聡さん。

 墓跡の場所は富田城内の山中。新宮谷の東奥で新宮川を越えて南方の山林へ入る。小高い山の斜面を登ったところに尾根を切り開いた平たん地が広がる。その中央に並ぶ飛び石の先に数個の立石があり、これが墓跡だという。

 平たん地の三方は一・五メートルから三メートルの高さの石垣が築かれている。「墓だけにしては立派すぎる。御霊屋(おたまや)か、お堂があったかもしれない」。参加者たちの一致した感想だった。状況から判断して相当規模の建物があったと推測できるという。

 忠氏の墓については松江市玉湯町の報恩寺にある宝篋(ほうきょう)印塔説もある。佐々木、尼子、松平氏と深くかかわってきた真言宗の古刹(こさつ)。寺伝によれば忠氏がマムシにかまれ、療養のため訪れていた玉造温泉で亡くなったため、ここに墓が造られたという。

 後日訪れた報恩寺は、傍らに植えられた紅梅が盛りを迎えていた。堀尾家の重臣、堀尾民部の墓より相当立派だった。忠氏の墓だと言われても全く違和感はない。

 忠氏の墓については「堀尾期松江城下町絵図」にある松江市の月照寺の中に「忠光寺」の記載があり、墓所の移転説も捨てきれない。また、京都市の春光院に移設した説もある。今後の研究に期待したい。

2008年3月31日 無断転載禁止