(6)浜田城跡(HAMADAJOUATO) 悲史の記憶とどめる石垣

浜田城の石垣。周りの景色に溶け合い、落ち着いた雰囲気を漂わせる=浜田市殿町
 日本海から突き上げてくる風が小高い丘の木々を揺らし、天空をトビが舞う。標高六七メートルの鴨山(後に亀山と改名)に築かれた浜田城は、本丸跡周辺の苔(こけ)むした石垣のみが往時の名残をとどめている。

 浜田城は、元和五(一六一九)年に五万五千石で入封した古田重治が築いた。浜田川河口にあり、本丸跡からは日本海や海上流通の拠点だった松原湾、外ノ浦が一望できる。かつて三重櫓(やぐら)の天守がそびえ、出船入り船の船乗りたちは、海上からその雄姿を仰ぎ見たのだろう。

 浜田藩は約二百五十年間続く。歴代藩主は四家にわたり、古田家は藩主が重臣を切り殺すという「古田騒動」のため二代で改易。その後、松平周防守家-本多家-松平周防守家(再封)-松平右近将監家と変遷。会津屋八右衛門の密貿易(竹島事件)が発覚したのは、二度目の松平周防守家の時だ。

 松平右近将監家の四代・武聡の時、浜田藩に激震が走った。慶応二(一八六六)年、第二次長州征討に際し、士気盛んな大村益次郎率いる長州軍を前に浜田藩は戦意喪失。城に火を放ち、退去した。

 久しぶりに浜田城跡を訪れた。本丸跡に通じる道は二つある。移築された旧津和野藩庁の門をくぐると、直進する石段と右に折れる石段に分岐する。右に折れる方が幕藩時代の登城ルートで、二の門跡を進むと敵の侵入の防御と、武者だまりを兼ねた枡形虎口(ますがたこぐち)があり、左に曲がって進むと本丸跡だ。広く、平らな頂上部には海風が吹き抜け、まさに海城だった感が漂う。

 浜田城は、幕末の燃えさかる炎にのみ込まれ、灰じんに帰した。二の丸跡から本丸跡への上り口に司馬遼太郎の「浜田藩追懐の碑」が立つ。その碑は「城あとは苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい」と結んでいる。

 歴史の流れの中で、翻弄(ほんろう)され続けた浜田城。それが運命だったのだろうか。


 浜田城 元和6(1620)年に着工。3年後に完成し、同時に城下町も形成された。平山城であり、元和の「一国一城令」以降に築城したのは明石城、福山城などわずかで、珍しい。第二次長州征討で浜田藩が長州軍に敗れ、自焼、退城となった。現在は城跡は城山公園として整備。浜田市勤労青少年ホーム、護国神社などがあり、園内には約550本のソメイヨシノが植えられ、市内きっての桜名所にもなっている。

2008年4月21日 無断転載禁止