(9)松江を開いた堀尾氏・其の九 裁断橋物語

【金助と母の銅像】堀尾氏の屋敷があった場所で、堀尾跡公園に隣接する神社、八剣社の境内に建立されている母と子の銅像=愛知県大口町
吉晴の一面知る貴重史料
 堀尾吉晴の生誕地、愛知県丹羽郡大口町を訪れた。吉晴の名は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らとともに戦国史の中で幾度も登場する。武勇伝や功績も数多く残る。NHKの大河ドラマ「功名が辻」では山内一豊とともに登場して、広く一般にも知られるようになった。しかし、生誕の地を体感できるものは屋敷跡を示す石組みと堀がわずかに残っているだけだった。



 そんな中で出会った母と子の情愛を描いた裁断橋物語は数少ない吉晴の一面を知ることができる貴重な史料だ。今回は生誕の地で生まれた裁断橋物語を紹介する。

【復元された裁断橋】長さ23メートル、幅5メートル。橋がある堀尾跡公園は桜の名所としても知られる。花見の季節には多くの行楽客でにぎわいを見せる=愛知県大口町、堀尾跡公園
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 物語の主人公、金助は一月一日付で”謎の人物”として紹介した堀尾金助。島根県では堀尾吉晴の長男、大口町では吉晴の父、泰晴の弟、方泰(まさやす)の子(吉晴のいとこ)として紹介されている。母の名が分かれば誰の子か一目瞭然(りょうぜん)だが、どの資料を調べても”金助とその母”とあるだけだ。

 出生の真相はさておき物語のストーリーは、一五九〇(天正一八)年、豊臣秀吉の小田原北条征伐に堀尾氏も参戦。十八歳になった金助の初陣となった。金助の母は祈願を兼ねて熱田神宮付近(名古屋市)にあった裁断橋で見送った。しかし同年、金助は戦地で亡くなる。息子を失った母は最後の別れの場になった思い出の橋・裁断橋を二度にわたって架け替えるという物語。

【擬宝珠の銘文】「てんしやう十八ねん二月・・」。元和8年、金助の33回忌に母が裁断橋の2度目の架け替えの際、擬宝珠に刻んだ文章。仮名文字を中心に母の思いが刻まれている。銘文は息子を宋に送る悲哀を述べた「成尋阿闍利母集(じょうじんあじゃりははのしゅう)」、鎖国の悲劇「ジャガタラお春の消息文」と並ぶ日本女性の3大銘文として知られる=愛知県大口町、堀尾跡公園
 現在、裁断橋は都市開発とともになくなり、橋の擬宝珠(ぎぼし)だけが名古屋市の指定文化財として同市の博物館に保存されている。その後、大口町では一九九六(平成八)年、金助の三十三回忌に架け替えられた二度目の橋を同町の堀尾跡公園に復元した。

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 公園には隣接して吉晴を祭る堀尾社があり、毎年四月の第一日曜日の金助桜まつりに併せて例大祭が行われる。今年も地元の丹羽ライオンズクラブと姉妹提携を結んでいる松江市の松江湖城ライオンズクラブから神田幸夫さん(74)ら四人が訪れ、交流を深めた。

【交流】堀尾公を祭る堀尾社の例大祭後、記念樹の前で記念撮影する地元丹羽ライオンズと松江湖城ライオンズの会員ら=愛知県大口町、堀尾跡公園
 先月、松江市では松江堀尾会が結成され、大口町の堀尾史蹟顕彰会との交流事業や吉晴像の建立計画をスタートさせた。松江開府四〇〇年を機に、これまで関心が薄かった堀尾氏がクローズアップされることになった。

【熱田の裁断橋跡】川は埋め立てられ、橋は取り壊された。現在はビルの谷間でわずかに面影を残す=名古屋市熱田区伝馬町、姥堂境内

2008年3月31日 無断転載禁止