(10)京極氏の時代・其の一 若狭土手

【伯太川の若狭土手】土手に建つ大塚両大神社(左)は棟札から1639(寛永16)年の建立と判明している。京極氏の伯太川改修直後、土手の上に建立された可能性が高い。江戸末期に描かれた絵図にも土手の上に神社が描かれていることなどから神社が建つ場所が当時の土手の位置、高さと大森さんは推測する。現在の土手(右)は神社を迂回(うかい)してかさ上げ工事が行われたため京極時代の姿が残った=安来市大塚町
【斐伊川の若狭土手】土手に立ち、斐伊川上流を見る。遠方に見える橋は北神立橋、右は住宅地。大きくて頑丈な土手が住民の安全をしっかりと守っている様子が実感できる。土手はサイクリング道、左下は野球場やゲートボール場、多目的広場が整備された斐伊川河川敷公園で、休日には若者たちや家族連れの歓声が河川敷に響き渡る=出雲市武志町
【伯太わかさ会館】安来市役所伯太支所前に建つ”わかさ会館”の名称は住民からの公募。若狭の名称が現在に残り、実際に使われているのは極めて珍しい。しかし、名称の由来が若狭国からきた京極氏が残した業績を伝えるものと知る人は少ない=安来市伯太町
斐伊川、伯太川の治水に挑む

 一六三三(寛永十)年、跡継ぎがいなかった松江藩主・堀尾忠晴の死で堀尾氏の藩政は幕を閉じた。翌年、堀尾氏の後を継ぐ京極忠高が若狭国小浜藩(福井県)から松江に入る。しかし、その忠高にも跡継ぎがなく、京極・松江藩の治政も一六三七年、わずか三年で終わりを告げる。短かった京極氏の松江藩時代の足跡を伝えるものは数少ないが、今回はその松江藩主・京極忠高を紹介する。

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 京極氏といえば、当時度々の洪水で氾濫(はんらん)を起こした斐伊川の改修を進め、「若狭土手」を築いた藩主として知られる。松江城天守閣にある松江藩の主な出来事を描いた壁画(安達不伝作)の中にも斐伊川土手改修工事の絵があり、見たことがある人もいるはずだ。

 現代の地図で斐伊川下流の地形を見ると、川は斐川町を抱き込むように大きく「Uの字」を描きながら宍道湖に流れ込む。しかし、前島根史学会会長の池橋達雄さん(76)=島根県斐川町=によると、古代、平地に流れ出た斐伊川は杵築の海(日本海)に注いでいたという。

 「斐伊川は大雨のたびに、流れは東や西に氾濫を繰り返し、大きな被害が住民を苦しめてきた」と古絵図を広げながら解説してくれた。上流から流れ込んできた濁流が、湾曲した斐伊川土手に激しくぶつかっていく光景が目に浮かぶ。

 忠高は、斐伊川の治水に当たり、それまで日本海に流れ出ていた本流を現在の出雲市武志地区で東向きに変え、宍道湖に注がせる大工事と取り組む。完成は次の藩主、松平直政の時代になった。

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 県内にはもう一カ所、安来市内に「若狭土手」と呼ばれる土手がある。安来市大塚町の郷土史家、大森康吉さん(85)は、自宅のある大塚町一帯について、「若狭土手が築かれるまで川らしい川はなく、大雨のたびに湿原のようになり、人が住める土地ではなかった」という。忠高が築いた土手は、それまで定まらなかった伯太川の流れを現在の流れに固定した。

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 斐伊川も伯太川もどこからどこまでが忠高の築いた土手か分からない。だが、若狭国からきた新しい藩主がこの地の治水に目を向けた施策の足跡を、住民が今日まで「若狭土手」と呼んで後世に伝え、感謝してきたことに間違いはないようだ。


2008年3月31日 無断転載禁止