(11)京極の時代・其の二 清滝寺(滋賀)

【京極忠高像(清滝寺所蔵)】忠高は1637(寛永14)年、江戸屋敷で急逝、45歳だった。1609年、父高次の死去に伴い16歳で家督を継ぐ。小浜(福井県小浜市)時代の忠高は、父が残した小浜城の築城に専念する。小浜城の完成直後の1634(寛永11)年、功労が認められ、26万4200石で松江藩主に移封される。幕府領だった石見銀山などの監督(4万石)権を与えられ、歴代京極家で最高の隆盛を見ることになる。写真は人物を中心に拡大
【位牌堂】本殿奥の位牌堂には高次以降7代の木像と位牌が祭られている。中央(阿弥陀像)左から高次、忠高の木像。前列にある白い2体の塑像は、忠高に殉死した家臣の井上門三郎重継、加納又左衛門尉
京極忠高の木像
【墓所】歴代当主ら34基、鎌倉時代から江戸後期までの宝篋印塔が上段、下段に分かれて建つ。写真は下段で忠高の墓は左から3基目、木廟の右横にある。左端の石廟は、京極家中興の祖といわれる高次の墓で、前面には不動明王や多聞天、楽器を奏でる天女の像が彫られている
【忠高の宝篋印塔】高さ2・88メートル。台座には「玄要院殿」、「天慶道長大居士」、「前若州大守羽林忠高」と彫られ、墓の前に2基の石灯籠、背後には殉死した家臣の五輪塔が3基。石材は福井県北部で産出する笏谷石(しゃくだにいし)。松江市内で唯一、京極氏を偲(しの)ぶことができる安国寺(同市竹矢町)に残る高次の供養塔も笏谷石で、若狭国から日本海を船で運ばれてきた
【京極の家紋】山陰で四ツ目結いの家紋といえば尼子氏を指す。戦国時代、安来市の月山広瀬城を拠点に出雲地方を治めていた尼子氏は、室町時代には出雲の守護を務めていた京極氏の守護代。京極氏の系譜をたどると尼子の始祖といわれる高久は6代目・高秀の4男。高久の長男は江州尼子氏、次男持久は出雲に移って雲州尼子氏の祖と呼ばれるようになった。ルーツをたどれば京極も尼子も同じだった
忠高の画像伝える菩提寺

 京極氏の松江藩時代は忠高の一代、わずか三年。県内に現存する史料は少なく、大半は文書ばかりだ。京極時代の話は聞けたが、忠高の容姿を現在に伝えるものに出合うことはなかった。それが原因ではないが、松江藩のおひざ元である松江市民にも京極氏の藩主が存在したことを知らない人も多い。忠高の顔が見たい一念で京極氏の菩提(ぼだい)寺である滋賀県米原市清滝の清滝寺を訪ねた。

 JR東海道線米原駅から三駅目、柏原駅で下車。岐阜県境まで数キロで、天下分け目の戦いがあった関ケ原とも目と鼻の先の距離だ。町中には「中山道」の道標や「お宿」の看板が多数残り、宿場町の様相を色濃く残していた。目的地の清滝寺までは徒歩で二十分。

 清滝寺の境内は四千五百平方メートルの広さ。白塀に囲まれた墓所には、京極氏が鎌倉時代から江戸後期の丸亀城主(香川県丸亀市)で終わる五百年以上にわたる歴代当主と分家の墓が整然と並んでいた。

 いずれも宝篋(ほうきょう)印塔で、墓に刻まれた梵字(ぼんじ)や蓮華(れんげ)、反花(かえりばな)のデザインは各時代の特徴を残し、石塔の歴史を一堂に見ることができる。これほど多くの石塔が一カ所に集まっている場所は国内でも珍しく、訪れる石塔研究家が後を絶たないという。

 今回一番の目的だった忠高の画像は、没一カ月後に描かれた作品。大きさは縦八三・二センチ、幅四〇・六センチ。黒の袍(ほう)に身を包み、上畳に座し、顔には薄く口ひげとあごひげがあり、像の上部には”賛”が書かれている。保存状態がよく、山口光秀住職(61)は「忠高公の一見おっとりとした表情の中に、公家を連想させるような気品を感じさせる」と話す。山陰にかかわりが深い尼子氏や石塔の話も交えながら忠高の素顔に迫ってみた。


◆京極家再興の理由
 京極の松江藩治世は忠高に嗣子がなく1代で絶えたが、実際は半年後、忠高の弟・高政の子、高和が家督を継ぎ、播磨国龍野(兵庫県)に京極家を再興した。その後、讃岐国丸亀(香川県)の城主になって明治を迎えた。

 再興が実現したのは、忠高が元服時に将軍秀忠の諱(いみな)の一字を授けられて忠高と名乗り、妻に秀忠の娘、初姫を迎えるなど徳川家との強い姻せき関係があったことや、高次、忠高親子の高い貢献度が評価された結果といわれる。

2008年6月16日 無断転載禁止