(9)大寺薬師・多聞天(OOTERAYAKUSI TAMONTEN) 歴史刻み圧倒的な迫力

左手に戟(げき)、右手に宝塔を持つ四天王の1人「多聞天」像。カヤの一木造りで、引き締まった筋肉に薄い鎧を身に着けている=出雲市東林木町、大寺薬師
安置された重要文化財の仏像の数々。訪れた人たちに安堵(あんど)感を与えてくれる
 険しい眉(まゆ)とキリっと結んだ口、空の一点をにらみつけるような目。収蔵庫内に一歩足を踏み入れると静粛な空間に四天王、多聞天の怒りの表情が浮かび上がる。

 一畑電車大寺駅から北へ約五百メートル。田畑や農家の間を走る細道を抜けると旅伏山のふもとにある出雲市東林木町の大寺(おおてら)薬師にたどり着く。

 山門をくぐるとこぢんまりとした境内の奥に大社造りをイメージした立派な収蔵庫がある。そこに四天王立像がある。

 収蔵庫内には、四天王立像(九世紀ごろ)以外にも薬師如来座像(十世紀ごろ)や日光・月光菩薩像(十一世紀ごろ)、二体の観世音菩薩立像(十一世紀ごろ)が並ぶ。九体すべてがカヤ材の一木造り、国の重要文化財(重文)だ。

 中でも多聞天立像は、ボリュームのある下半身が大地に根を下ろすように力強く立つ。上半身はやや細身だが、引き締まった筋肉と鎧(よろい)模様が浮かぶ。体の表面に走る木目や木の年輪が長い人生を歩んだ人のしわに感じられ、じっと見ているとその迫力に圧倒される。近くに住み、収蔵庫の管理を八年間務める太田彗さん(68)は「多聞天が一番りりしくて好き」と話す。

 奈良時代の繁栄から一転、中世の廃寺状態を経て再興。現在は無住の地方の一寺に国の重文に指定されるほどの高い技巧で作られた木像群がなぜあるのか。伝承では、奈良時代の僧行基が諸国巡歴の途中寺を訪れ、一夜で九体を彫ったという。地元の郷土誌「ふるさと鳶巣物語」の編さんに携わった鳶巣コミュニティセンターのボランティア、金築功さん(65)は「今も残る大寺という名称が指すように、当時は出雲地方最大級の大寺院だったからではないのか」と語る。

 島根県立古代出雲歴史博物館(同市大社町)の的野克之学芸グループ課長は、四天王立像などが何度か修復を受けた形跡があり、木像により技巧が異なる点などから、明治時代までに各地から木像が大寺薬師に集まってきた可能性も示す。「四天王立像はとても地方独自で造れる木像ではなく、中央の仏師の指導で制作されたと思える。どこから来たかを含め、謎の部分は多い」とする。

 繁栄と衰退の歴史を体に刻んだ四天王立像は今も、出雲の北山のふもとにある寺から時の流れを静かに見守る。

 (写真・本社報道部 小滝達也 文・同 堀江純一郎)


 大寺薬師 正式名は万福寺。594(推古天皇2)年に鰐淵寺(出雲市別所町)の創建者の智春(ちしゅん)上人が創建したとされる。奈良時代には金堂や観音堂、七重大塔などが建てられ、護国の道場になったと伝えられる。中世期には荒廃したが、1564(永禄7)年に極楽寺(同市平田町)の住職、心誉(しんよ)上人により浄土宗の寺として再興されたという。1650(慶安3)年、洪水による山崩れで本堂などが埋没した。現在の薬師堂は元の所在地の約300メートル南に再建されたといわれている。

2008年6月30日 無断転載禁止