(12)関札で知る松江藩 草津宿本陣(滋賀)

【草津宿本陣の関札】 来場者がびっくりする関札群。関札から多くの大名やお供の家来が行き来した宿場町の様子が目に浮かぶ=滋賀県草津市、草津宿本陣
【松平淡路守泊】 松江藩の支藩、広瀬藩で淡路守を名乗ったのは6代藩主近貞と7代藩主直義。このころの広瀬藩主直義は31年間の在職中に幾度か帰藩した。関札はこのとき使用したものと推定されている=鳥取県伯耆町、西村芳夫さん宅
【勅使西園寺殿御休】 1868(慶応4)年1月29日(旧暦)、藩船二番八雲丸が松江への帰還途中に故障。宮津(兵庫県丹後)に入港し、山陰道鎮撫総督出張所の嫌疑を受け抑留された。この時、鎮撫総督の西園寺公望が松江藩の不穏な動きをチェックするとして、松江を訪れた。関札を保存している鳥取県伯耆町、堀田康男さん宅には、この時に使用した食料などを記した覚書も残る
【出雲少将宿】 裏面には「文久4(1864・元治元)年3月末日京都より御帰国」と書かれている。時代は明治維新直前。「松平定安公伝」によると、明治2年に官名が出羽守から出雲守に変わっている。文久4年はまだ出羽守だったことから関札の「出雲」は出雲藩、雲州を指しているのではなかろうか=鳥取県伯耆町、仲田力さん方。写真右は元溝口小学校校長で郷土史家の南波睦人さん。左は仲田さんの妻稜子さん
【草津宿本陣正門】 現在も松平出羽守の関札が立つ草津宿本陣=滋賀県草津市
【雲州役所印章】 大名独自の飛脚制度で、七里ごとに取次所を設けたことから七里役所とも呼ばれた。松江藩では草津宿本陣をはじめ、江戸と松江の間に28カ所の雲州役所を設けて書簡や荷物を伝送した。印章はその時の送り状や受け取りの確認に使用された(草津市・草津宿街道交流館提供)
参勤定宿の証し14点残る

 関札は大名や公家が宿泊などをしたときに使用した標識で宿札ともいう。前回紹介した京極氏の菩提(ぼだい)寺、清滝寺を取材するなら「あそこも寄ってみたら」と薦められたのが滋賀県草津市の草津宿本陣だった。

 東海道と中山道の合流・分岐点に位置する街道の要衝。参勤交代で西日本各地の大名たちが宿泊地として利用、国内でも一、二を競うにぎわいを見せた宿場町として知られる。

 同本陣は松平松江藩の定宿で歴代の藩主や家臣が利用した記録が多数存在し、その時に使用した関札も数多く残っている。今回は、山陰にも残っている松江藩ゆかりの関札を紹介する。

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 JR草津駅を下車、徒歩十分。訪れた草津宿本陣では、表門に立てられた「松平出羽守宿」の大きな看板(レプリカ)が出迎えてくれた。玄関に入って行くと、細川、毛利など聞き慣れた大名の名前に交じって「松平」や「出雲」の名前が書かれた関札が展示されていた。

 関札は宿泊者が持参するもので、いずれも敬称はない。名前も一般には「直政」といった実名ではなく、「○○守」などといった官職名で書かれている。

 同本陣に保存されている関札は、木製が約四百六十枚、紙製は約二千九百枚残っている。このうち、松江藩の関札は十四点(木製十三、紙製一)。表書きの名称には「松平出羽守」、「出雲少将」などとある。しかし、関札に年号を記したものはなく、個々の関札で宿泊者を特定するのは難しいという。

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 同本陣に残っている大福帳で松江藩に関する最も古い記載は、一六九二(元禄五)年の「出羽守」だった。当時、この「出羽守」を名乗った人物は二人存在する。草津宿本陣の別所健二館長は「特定はできないが、地理的なことを考えると、おそらく松江藩主でしょう」と話す。

 それ以後での松江藩と思われる記載は七十件。一八六三(文久三)年には、松江藩最後の藩主・定安の養母「松平出雲守御養母」などという貴重な記録も残る。


メモ
 松江藩主が「出羽守」を名乗ったように○○守の○○は国や出身地と同じではない。初代直政は、信濃国松本から松江に移封されるにあたり、出羽国(山形県)を要望したという。しかし、願いはかなわず、称号だけを許されたという逸話が雲陽秘事記にある。それを裏付けるように、松江藩家老朝日丹波恒茂の秘書(回想録)に「(直政は)松江は西国のへき地で不満だった」という記述があり、その見返りに紀州と尾張両家にだけ許されていた七里役所の設置を許されたという。ただ、こうした内容の真偽は不明である。

2008年7月7日 無断転載禁止