(13)松江藩のインフラ整備・其の一 佐陀川開削

【佐陀川新景】日曜日の早朝、夜明けを待って佐陀川から日本海に出航していくプレジャーボート。近年マリンスポーツがますます盛んになる中、佐陀川を象徴する現在の顔だ=松江市鹿島町、神名火大橋から上流を望む
【湖北平野】取材中に見つけた「基盤整備完成記念碑」(古江生馬ほ場整備事業)に冠水と塩水の逆流に悩まされてきたとあった。事業面積410ヘクタール、事業費24億4822万7000円。古地図に残る”潟の内”とは眼下に広がる田園地帯。そして佐陀川が開削されるまでは大半が沼地同然だったという=西浜佐陀町から鹿島町、日本海方面を望む
【排水機場】湖北平野は豊富な灌漑(かんがい)用水に恵まれている。講武川や生馬川など周辺から流れ込む水は2カ所にある池が最終地点。しかし、ひとたび大雨が降れば現在も池の水はあふれ出して洪水になる。排水機場は池の水を佐陀川に排出して水田を守る=松江市西浜佐陀町の西排水機場から東排水機場を望む
【現在も続く改修工事】宍道湖の湖心で214センチを記録した平成18年7月19日に発生した水害を機に始まった佐陀川堤防のかさ上げ工事。島根県によると、佐太神社付近で現在の流量(毎秒)70トンを135トンに、下流部で100トンを200トンにするという=松江市下佐陀町内
【鹿島マリーナ】マリンスポーツの拠点として注目されている。300隻近くのプレジャーボートや小型漁船が係留され、休日には夜明け前から多くの釣り人たちでにぎわう=松江市鹿島町
水運、新田開き藩を潤す

 宍道湖から日本海に注ぐ松江市内の佐陀川は、松平松江藩七代藩主治郷(不昧)の時代に開削された川。度重なる洪水に見舞われていた松江城下と宍道湖周辺の水害対策に、湖水を日本海に流し、被害を緩和させるというものだった。

 効果はてきめん、佐陀川の開削以後、一雨降れば沼地になった地域での新田開発に拍車が掛かった。さらに、松江と日本海を最短距離で結ぶ新航路の誕生は、運送費の軽減と大幅な時間短縮をもたらした。佐陀川はさしずめ”現代版高速道路”、松江藩に物資の輸送革命を引き起こした。そんな佐陀川の歴史と現在の姿を紹介する。

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 一七八五(天明五)年、松江藩の普請方吟味役だった清原太兵衛は、長年にわたって藩に懇願してきた佐陀川の開削に着手する。難工事の末、三年の歳月をかけて完成した佐陀川は川幅約四十メートル、全長約十二キロ。佐陀川開削の結果、宍道湖の水位は一メートル下がり、開発された新田は二百ヘクタールと伝えられている。

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 川沿いで米が増産されるようになると、河口付近には藩の御番所や米蔵が置かれ、通行税の徴収や上納米の集荷業務が行われた。また、他藩との交流が盛んになると船宿も誕生、海運業が盛んになった。船は干しアワビやスルメ、ハゼロウ、まき、炭などあらゆる物資を積み込み、佐陀川を往来。このころを境に、それまで財政難に陥っていた藩の台所事情は好転したといわれている。

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 幕末から明治にかけての佐陀川航路は全盛期を迎え、河口の恵曇は、県内有数の港へ発展していく第一歩を踏み出した。大正時代には合同汽船の定期便も就航した。しかし、時代の変遷に伴い、佐陀川は航路としての役目を終え、単なる放水路になってしまった。

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 恵曇を出入りした船舶数を明らかにする資料は見つからなかったが、一八七二(明治五)年の村役場資料には、一年間の入船四百二十四隻、出船二百四隻(地元船除く)とあり、当時を推し量ることができる。二百石から五百石の船が松江に向かったことも記載されており、松江市鹿島町の郷土史家山本弘さん(76)は「入り船の多さと大型船の通航が、佐陀川航路の繁栄ぶりをしのばせる」と話す。

 佐陀川開削で最大の功労者だった清原太兵衛は、佐陀川の開通式を一カ月後に控えた一七八七(天明七)年十一月、七十六歳の生涯を閉じたが、その業績は今も語り継がれる。

2008年8月4日 無断転載禁止