(14)松江藩のインフラ整備・其の二 加賀港築堤工事

【櫛島から桂島を見る】櫛島の頂上から桂島方向を見る。堤防にはコンクリート製の歩道が敷かれ、両サイドには築堤に使った石組みが海水浴場に向けて続く=写真はいずれも松江市島根町の加賀港
【防波堤の全景】松江藩時代に築堤された櫛島(右端)と桂島を結ぶ防波堤で荒波から守られている加賀港。多数の船が錨(いかり)を下ろしている風景は今も昔も変わらない
【新旧のもやい石】桂島の浅瀬周辺には船を係留していた新旧のもやい石、岩が現在も多数点在する
 避難港から拠点港へ昇格

 北前船などが往来した日本海航路の全盛期、松江藩の海上輸送は松江城下の御手船場を起点に美保関、境港を経由して日本海にこぎ出すコースだった。

 同藩では佐陀川開削事業と並行して、城下と日本海を最短距離で結ぶ佐陀川輸送ルートの確立を模索した。そこで白羽の矢が立ったのが当時、天然の良港として知られ、北前船の避難港で物資の補給港でもあった加賀港の整備計画だった。

 ルートさえ整備されれば、松江の特産物は佐陀川、恵曇経由で加賀港までの運搬が可能となり、北前船や千石船と呼ばれる大型船に荷を積み替え、長崎や大坂への大量輸送が始まることになる。今回は加賀の港が躍進するための絶対条件だった防波堤工事を紹介する。

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 加賀港の入り口には、打ち寄せる日本海の荒波を受け止め、天然の防波堤ともいえる桂島と櫛島が構えている。港の整備は、この二つの島の間をつなぐ超巨大な防波堤を築き、さらに多くの船舶が安全に停泊できる港にすることだった。

 着工の二年前、佐陀川開削が完成する天明八(一七八八)年に書かれた築堤の見積書には、「堤防の長さ百八十間(約三百二十五メートル)、底十五間、上面五間、水底からの高さ平均一丈二尺(三・六三メートル)。必要な伝馬船延べ三万三千六百隻。石を突き固める人夫八千人、捨て石人夫三千人」と記されている(島根町誌)。港の整備は佐陀川の開削をにらみながら、着々と準備が進められたようだ。

 築堤に使われた石は、宍道湖や日本海に面した港から調達された船が桂島まで運んだという。工事は寛政二(一七九〇)年六月十日着工。多くの住民が動員され、測量係など藩から八十二人の役人や責任者が乗り込んで陣頭指揮した。加賀が始まって以来といわれた大工事は、農作業の合間を利用した十八日間の超突貫工事だった。

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 佐陀川開削に次いで、わずか二年後に行われた港の整備。加賀港を中心とした海運振興にかけた松江藩の期待の大きさがうかがえる。以後、加賀港に出入りする船は急増、人の出入りが増えるに従って、周辺に船宿などもできて一段とにぎやかさを増していく。同藩七代藩主治郷の時代には、御番所を置いて船の監視を行った。

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 堤防をよく見てみると、上部と波打ち際の石は形状も違う。後世にかさ上げされたようだ。おそらく完成当時は、堤防の高さは海面とほぼ同じで、かろうじて荒波を防いでいたのではと思われる。漁港があって海水浴や磯釣りの場として親しまれるこの場所に、海運振興にかけた松江藩の期待の大きさを知ることのできる足跡が今もしっかりと残っている。



「開府400年記念・松江誕生物語」は、写真シリーズ企画「未来に伝えたい山陰の遺産」「世界遺産・石見銀山遺跡」とともに月曜日に随時、掲載します。

2008年8月18日 無断転載禁止