(15)松江藩のインフラ整備・其の三 日吉切通し

【手彫りの川床】川床の岩は勢いよく流れる意宇川に洗われ、丸みを帯びてきたといわれるが、今もなお昔の面影を残している=松江市八雲町日吉
【現在の日吉切通し】剣山を開削して流れる意宇川。赤線は家正、黒線は良刹の時代に開削した部分。緑線は剣山の稜線=いずれも八雲村発行「周藤彌兵衛」参照
【水没面積の測量】当時の水害の数値的な史料は、どこを探しても見つからない。最後に訪れた松江市八雲支所で、それならと職員が取り出してきたのが地図から面積を測定できるプラニメーター。2000分の1の地図と写真などを参考に測量した結果、水没推定面積は約31ヘクタール。水害の規模をイメージするには十分だった=松江市八雲支所
水害の村周藤家が救う

 大雨のたびに大洪水に見舞われ、幾度も壊滅状態になった松江藩の日吉村(現在の松江市八雲町日吉)。原因は村を抱え込むように大きく蛇行する意宇川の氾濫(はんらん)。ひとたび堤防が決壊すれば川の水は剣山(つるぎさん)に阻まれて行き場を失い、村は泥沼と化した。打開策は剣山を切り開き、新たに川筋を造る川違(かわたが)えを行うことだった。今回は周藤彌兵衛の名とともに、松江藩の治水と新田開発の歴史として伝わる日吉切通し(ひよしのきりとおし)を紹介する。

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 意宇川の川違えと切り通しの開削は、松江藩祖直政が治世する一六五〇(慶安三)年、村の大百姓、初代周藤彌兵衛家正の懇願で藩の事業として始まる。工事は三年の歳月をかけて完了したが、二年後の一六五四(承応三)年に再び襲った洪水で堤防はあっけなく決壊した。

 原因は切り通しの幅が狭かったことだ。家正は藩に再度切り通しの拡大を懇願するが、財政難を理由に再開されることはなかった。その後、村は幾度も水害に悩まされ続けることになる。

 家正の工事が水泡に帰してから五十二年。家正の孫、良刹(りょうせつ)は藩の支援をあきらめ、私財を投じて切り通しの拡大を決意、祖父の志を貫くことになる。一七〇六(宝永三)年、良刹五十六歳の時だった。

 以後、四十二年間にわたり、良刹は自ら槌(つち)と鑿(のみ)で剣山の岩盤と格闘、ついに念願の切り通しの拡張を完成させる。歴史に残る周藤彌兵衛と日吉切通し伝説の始まりである。良刹の死後、六代目兵蔵も切り通しの開削に心血を注ぎ、周藤家三代の偉業として現在に伝わる。

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 現在の切り通しは幅約三十メートル。削り取られた剣山の断面は高さ二十メートル以上。川床の長さは南北に約三十メートル。このうち家正の代に行った切り通しの幅は七間(十二・七メートル)、奥行き十六間(二十九メートル)。その後、良刹の開削でほぼ現在の姿になったといわれている。

 旧八雲村が発刊した「周藤彌兵衛」では、三期にわたる工事での切り通しの総開削量を九千三百立方メートル、重量は計二万三千トンで、十トンダンプ二千四百台分。賃米千二百二十俵、作業員の総計三万四千八百七十人と紹介している。一方、新川の開削と築堤、新田造成に要した人員は十三万千七百五十人、賃米四千六百三十三俵。全工事にかかった賃米は、当時の日吉村の十四年分の石高に相当すると記している。

 広く一般に知られている周藤彌兵衛の功績、偉業は切り通しだが、史料から見る限り、川違え工事のウエートが高いことが分かる。工事の進行状況や水害の規模、川違えによる新田開発の面積など、同事業に関する史料はほとんど現存せず、数値はいずれも推測の範囲という。

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 撮影に訪れた日、日吉切通しは、荒々しい岩肌をむき出しにした姿で迎えてくれた。旧八雲村時代に切り通しの調査をした松江市文化財課調査係の川上昭一さん(39)は「子どものころ夏になると、ここから飛び込んで遊んだ」という。川床の岩を見ながら「昔は削った跡がもっと鋭く残っていた」と話す。

 流れに洗われて少し丸みを帯びた切り通しの削り跡。川床に立つと、一念を貫き通した周藤彌兵衛の執念とともに、財政難で水害に苦しむ小さな村を見捨てざるをえなかった松江藩の窮状もうかがえるような気がした。

2008年9月8日 無断転載禁止