(16)絵図で知る松江藩・其の一 道程記

【長さ11・5メートルの絵巻】道程記は約11・5メートル、廊下にすべてを広げきれなかった。国境を越えて最初に出迎えるのは「郡奉行」「代官」。中海にはお出迎えと思われる5隻の舟。旗印にはいずれも葵(あおい)の紋がある。幕で覆われた屋形舟風の舟は松江藩の重臣だろうか。その下の屋敷には「御茶屋」の文字。殿様はここで最初の休憩をした=松江市東津田町、田中又六さん(右)の自宅。左は妻の喜美枝さん
【松江大橋に番所】松江大橋の両端には番所が置かれ通行人を厳しく監視していた様子がうかがえる。また北詰には御触書などを張り出した御高礼(こうさつ)、南詰の地蔵堂脇には柳の木がある。現在は柳地蔵として近くのお寺に祀(まつ)られている。また橋桁(けた)下の川面に突き出ている4本の杭(くい)は洪水の時、流木などから橋を守った捨て杭
【京橋渡って勢溜】京橋を渡った空き地は勢溜。現在の旧日銀や山陰合同銀行北支店辺りになる。その先、不規則な十字路は山陰中央ビル前で、現在も昔の面影を残している。城の近くでは多くの藩士の名前が記されている
【津田の松原】松並木が整然と続く津田の松原。右上の付せん紙には杵築、知井宮、平田など出雲市周辺、左下には松江を中心にした商家、旧家の名前が並ぶ。左端には木戸。その先は白潟竪町の交差点があるので現在の雑賀町辺りだろうか
藩主お国入りの道案内書

 江戸時代、殿様のお国入りは一世一代の大イベントだった。今回紹介する「道程記」は、お国入りする藩主の、雲伯国境(鳥取・島根県境)から松江城に至る道程を絵巻風に描いた、いわば道案内書。沿道に描かれた松並木や民家、川や橋、湖上に浮かぶ舟など多数の絵から当時の風景がしのばれる。また、絵に添付された付せん紙には多数の人名、郡役人に寺院や神社名、聞き覚えのある旧家や商家の名前もある。当時の有力商人や地域の名士たちが沿道で殿様とのお目見えを待っていた。そんな絵図が松江市内の旧家にあると聞き、訪ねてみた。

    ※ ※ ※

 所有しているのは、松江市東津田町の田中又六さん(84)。田中家は元は広瀬にあったが、一六〇七(慶長一二)年、松江開府の祖・堀尾吉晴が広瀬から松江に本拠を移すとき、吉晴の案内役として同行。以来移り住んだ津田の草分け的農家で、堀尾氏亡き後は京極氏、松平氏にも厚遇されてきた。近隣の村々の庄屋や意宇郡の与頭役(くみがしら)も務め、藩主の参勤交代のときには屋敷前でのお目見えも許された。広瀬町の古地図にも先祖の家名が載っているといい、家系図は残っていないものの、田中さんは「多分、私で三十代目」という。

 この道程記が作成されたのは一八二七(文政一〇)年ごろ。松江松平藩九代藩主斉貴(なりたけ)の入府(お国入り)のとき作成されたものといわれている。縦二一・六センチ、横七・八センチ。百四十六面の折り本型で、すべてを広げると全長は一一・五四メートルにもなる。

    ※ ※ ※

 絵図には雲伯国境から松江城下に至る山陰道(通称伯耆街道)が色彩豊かに描かれていた。初めに「能義郡吉佐村御境杭ヨリ三丸御門?七里拾八丁三十六間(約二十九キロ)」と記され、国境から松江城三の丸までの街道を描いたことを示している。出発して間もなく、「御茶屋」の絵と文字。中海にはお出迎えの舟。沿道には松並木、一里塚、寺社、木戸、船着き場。民家は瓦屋根やわらぶき屋根で描き分けられており、各家の格式をうかがい知ることができる。

 意東川や冨田川、大庭川といった河川名、橋にも天神橋、大橋、京橋など現在も存在する名称が書き込まれている。

 この絵図で注目されるのは、添付されている付せん紙の内容。藩主が江戸から国元へ戻るとき、沿道でお目見えする人物と場所を示している。付せん紙には、郡奉行から御鷹方、鵜匠(うしょう)、御厩(きゅう)役人、御徒目付など三十以上にものぼる藩役人の役職名、郡村町役を務めた約四十人にのぼる商家などの名士、十八社の神職ら、数えてみると総勢約百人の名が記されていた。

 こうした絵図から知ることができる情報は、計り知れないほど多い。リアルに描き込まれた絵図と多数の史料を重ね合わせ、現代と対比させることによって、当時の松江藩内の姿、参勤交代の様子などが、より現実味をもって浮かび上がってくる。

2008年9月29日 無断転載禁止