(18)絵図で知る松江藩 其の三 絵巻「村松山内善禅寺募縁起」

【絵巻全景】 左端は船着き場。大橋川には多数の船が往来している。現在はシジミ舟の係留場所になっている。並木道の先には金剛像がある山門。絵図の中央には観音堂(左)と本堂。釈迦堂、地蔵堂、多聞堂などが描かれている。長さは約2メートル=出雲市大社町、島根県立古代出雲歴史博物館所蔵
【現在の風景】 白い橋脚は大橋川に建設中の第五大橋。内善寺があった観音山古墳は手前の丘陵地の裏側。船着き場は写真右端付近=松江市東津田町から西尾町方向を望む
【観音堂建設】 建設中に石棺を発見した時の様子。絵図と現実が唯一確認できる貴重な場面
【位置の確認】 やぶの中で絵巻の絵と地図で確認。後方は観音山1号墳
【絵巻】 上下2巻の絵巻は1666(寛文6)年に完成。絵巻とは別に林鵞峰による「村松氏雲州別野記」が付属する
 村松家建立幻の寺伝える

 松江松平藩の初代藩主直政の時代、現在の松江市西尾町の大橋川沿岸にある広大な敷地に荘厳な大寺院「内善寺」が存在していた。しかし、寺院の存在を示す出土物や礎石などは何も発見されていない。今、残っているのは「村松山内善禅寺募縁起(そんしょうざんないぜんぜんじぼえんき)」という絵巻だけ。そのため古くから研究者の間で”幻の寺”ともいわれてきた。幻の内善寺を探しに絵巻のコピーと地図を手に、島根県古代文化センターの益田浩太、岡宏三両研究員の案内で現地を訪れた。

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 今回紹介する内善寺は、十四歳のとき直政に十三石で召し抱えられ、晩年には六千石の家老にまで異例ともいえる大出世をした村松内膳直賢(なおかた)が、父母の菩提(ぼだい)を弔うため建てた寺と別荘。絵巻は内善寺が完成するまでを描いた物語だ。寺名となった「内善寺」は、名前の「内膳」にちなんだもので、絵巻は上巻が縦三十七センチ、長さは十メートル四十センチ、下巻は長さ十三メートル五十二センチの二巻。計十三段の解説と十四の絵図が収められている。

 絵は狩野派一門による複数の絵師による合作だが、圧巻は幕府のお抱え(御用)絵師として一世を風靡(ふうび)した狩野安信が巻末に描いた内善寺の境内と周辺の描写。約二メートルの絵図には大橋川に設けられた船着き場から続く並木道。その先には金剛像のある山門をくぐった奥には、舞台付きの清水寺(京都)を模した観音堂。直賢自身の銘文を記した鐘をつるした鐘楼など数棟からなる本堂。周辺を無数の松と池、茶畑に囲まれた内善寺の様子が詳しく描かれている。

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 その場所は松江市西尾町。観音山古墳群がある丘陵地帯で、現在建設中の松江第五大橋道路が丘陵地に沿って走る。西隣には境内に東照宮があった円流寺、さらに、その先には松江藩の別荘があった楽山公園がある。当時、一帯は高級別荘地帯でもあった。

 内善寺探しの手掛かりは、島根県が観音山1号墳の測量・発掘調査で発見した石室と、絵巻に残されている古墳の頂上で「観音堂を建築中に石室発見」と書かれている詞書と絵。

 やぶの中を二時間ほど歩きまわると古墳の周辺に庭園を忍ばせる丘陵地や茶畑、池を見ることができた。頂上からは田園地帯の中を流れる朝酌川、剣先川、大橋川も一望できる。岡さんは「絵と地図で照合すると位置関係がほぼ一致する」と話し、発掘調査が必要とも言う。

 内善寺は一六六二(寛文二)年ころに完成したが、その後三代目、静賢(しずかた)の代で村松家は失脚。寺は完成後、わずか二十数年で跡形もなく取り壊されてしまった。幻の寺と言われるゆえんだ。

2008年11月3日 無断転載禁止