(21)江戸の松江藩・其の二 不昧ゆかりの天真寺

【不昧像】不昧が亡くなった後、かわいがられていた狩野伊川院栄信が描いた作品。不昧像は月照寺所蔵の画がよく知られているが、これは毎年4月、護国寺で催される不昧忌で掛けられる同寺所蔵の不昧像=護国寺の不昧記念茶室・不昧軒で撮影
【不昧筆「円相」】不昧の代表作として知られ、一筆で書かれた円は禅における書画の一つで「無」を指す。禅では「む~」と伸ばす。賛では不昧と禅、大巓和尚との関係など不昧の禅修行の過程とその見解を説いている。不昧が66歳のとき、長年公案に思い悩んだ末、豁然(かつぜん)として悟り描いたという(天真寺蔵)
【大巓宗碩像】不昧が生涯禅の師として仰いだ。座禅のとき、眠気などを覚ますための警策(きょうさく)を手に持っている(天真寺蔵)
【禅板】座禅に用いる板で、身を寄せ掛けるのに使う。豊吉住職によると、上部の丸いくぼみは、疲れたらアゴを乗せるためという。展示中だった港区立港郷土資料館で、松本健学芸員をモデルに撮影。手前の板の表には「是什麼(これなんぞ)」の文字、もう一枚には「無手者好打」とある。大巓和尚と不昧の間に交わされた問答で、2枚とも定家流の伸びやかさが生かされた不昧独特の書体
【天真寺】不昧と大巓宗碩和尚が出会った寺院=東京都港区南麻布
 禅の師・大巓和尚と出会う

 「不昧(治郷)の茶道を一言で答えると、根本的には禅」-。茶の湯に造詣が深い出雲文化伝承館の藤間亨名誉館長はこのように話す。十代前半から、父の松江藩六代藩主・松平宗衍(むねのぶ)から帝王学を学んだ不昧は、茶の湯に興味を持つとともに、禅学の修行を行う。以来、心の中には常に禅の精神が宿っていた。その禅の心は藩の財政改革にも生かされ、不昧が松江藩中興の祖といわれる原点にもなった。

 東京都港区南麻布にある天真寺=豊吉(とよし)宗雄住職=は、不昧の号を授けた大巓宗碩(だいてんそうせき)和尚の寺として知られる。茶人・不昧を語る上で京都大徳寺とともに、欠かすことができない場所だ。天真寺には不昧ゆかりの茶器や書、手紙、遺品が多数残されていて、茶道家や不昧研究家が一度は訪れる場所でもある。今回は、その中から不昧と禅のかかわりを知ることができる品々を紹介する。題して”見て知る茶人不昧”。

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 江戸・赤坂の藩邸で生まれた不昧(幼名・鶴太郎)は、藩邸から三-四キロ離れた天真寺をよく訪れたという。天真寺には直政(初代藩主)と綱近(三代藩主)の夫人の墓があり、参詣に訪れた不昧は、ここで生涯禅の師と仰いだ大巓和尚と親しくなる。

 一七六七(明和四)年、名を治郷と改め、十七歳で藩主になった不昧は、翌年から将軍家の茶道師範・伊佐幸琢から正式に石州流を学び、次いで禅学を大巓和尚から学び始める。このころ、既に親交のあった京都大徳寺の無学宗衍(むがくそうえん)和尚から「三央庵宗納(みおうあんそうのう)」の号を授かっている。不昧の号は一七七一(明和八)年、大巓和尚から授けられたのだが、実際に不昧を名乗るようになるのは五十六歳で隠居、剃(てい)髪した一八〇六(文化三)年より後のことである。

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 若くして藩主になった不昧が、六十三歳の国家老・朝日丹波茂保とのコンビで逼迫(ひっぱく)した藩の財政を立て直したのはよく知られているが、その藩政に禅の精神が生かされているという。

 不昧の茶道を語る中でよく使われる「茶禅一味」とは、お茶の心は禅。自慢、おごりを排して謙虚になることだという。「一味同心」は、お茶を飲むことで心を同じにする。また、「一座同心」は二人一緒になって同じ心になる-との意味だ。階級意識が厳しい時代にあって不昧は、茶の湯を通じての大名と町衆の交流の中で、人の和を重んじながら、お互いの人格を認め合い、充足感を分かち合っていたようだ。

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 その例の一つとして藤間名誉館長は、不昧が国元に戻ったとき、丹波の屋敷で丹波の家族とも深い親交があったことを上げ、「そうした不昧の姿勢が、親子以上に年の離れた丹波の心を開かせ、本気で財政改革に取り組ませた」と話す。

 閑静な高級住宅地に囲まれた現在の天真寺に、かつて七宝荘厳の大伽藍(がらん)があったことを偲(しの)ぶことはできない。しかし、不昧ゆかりの品々を目にして、茶人不昧の心を垣間見たような気がした。

(文・写真 本社報道部・伊藤英俊)



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2009年1月12日 無断転載禁止