(22)江戸の松江藩・其の三  護国寺

大正末、正室■(青にサンヅクリ)楽院(せいらくいん)と合祀(ごうし)して天徳寺から移転された不昧の墓碑。写真の人物は現松平家当主の直寿さん=写真はいずれも東京都文京区、護国寺
見るものを圧倒するダイナミックな作品「枕流」は、重要文化財に指定されている月光殿の床の間にも違和感なく納まり、独特の空間を創出してくれた
天徳寺にあった不昧ゆかりの品々を利用した不昧記念茶室。円成庵(手前)と不昧軒。待合に小林如泥作のヒョウタンの透かし彫り(中央左)がある
出雲石製の灯籠と蹲
「弾指」と彫られた文字がかろうじて読める扉。太陽光で微妙に変化する文字を上下、左右から片っ端から撮影した中の一枚
 茶道の総本山不昧の墓も

 東京にあった雲州松平家の菩提(ぼだい)寺・芝の天徳寺は、一九二三(大正十二)年の関東大震災で壊滅的な被害を受けた。震災後の都市開発計画で墓所の移転を迫られる。松平家では、天徳寺での墓所再建をあきらめ、故郷松江の菩提寺・月照寺に墓石などすべてを移すことを決める。

 当時、同様な被害を受けた護国寺の信徒代表で茶人でもあった高橋箒庵(そうあん)は、伽藍(がらん)や墓地の整備だけではなく、東都第一の茶文化の本山にする計画を進めていた。不昧(治郷)の墓石移転話を聞いた箒庵は、松平家に茶道界で名を知られた不昧の分骨や護国寺へ墓所を移転しての再建を強く懇願。その熱意に松平家も賛同し、分墓が実現した。

 広い境内には墓碑以外にも不昧ゆかりの品々が多数あると聞き、現当主の松平直寿さん(83)の案内で、都内文京区大塚にある護国寺を訪ねた。

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 地下鉄護国寺駅から地上に出ると目の前に参道。仁王門、不老門、本堂へと続く。護国寺は春の桜が有名だが、秋の紅葉も素晴らしい。キャンバスに絵筆を走らせる人たちでにぎわう境内を墓所へと向かった。

 案内された不昧の墓碑は、高さ三-四メートルはあろうかという五輪塔。墓前横には、不昧が生前愛用していた筆などを供養した筆塚がある。この筆塚は、盲目の国学者・塙保己一(はなわほきいち)の碑文で有名だったが、風化して読むことができない。文政年間に建てられた碑は、その後の地震で損壊。現在のものは二代目という。

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 境内には、墓の移築のお礼に建てられた円成庵と不昧軒がある。天徳寺にあった不昧遺愛の品といわれる出雲石の灯籠(とうろう)と蹲(つくばい)などを使った茶室で、東京の茶道具商二十八人の協力で建てられた。

 茶室入り口にある門扉には、禅の代表的な書物・證道歌の一句「弾指円成(だんしえんじょう)」の四文字が彫られている。不昧が帰依した鎌倉円覚寺の誠拙(せいせつ)禅師の書体。扉の全面に力強く彫られた文字は、肉眼での確認が難しく、うっかりすると見過ごしてしまいそうだ。

 門をくぐり、灯籠と蹲を横に見て円成庵、奥の不昧軒へと進む。途中の待合には、小林如泥作と伝えられるヒョウタンの透かし彫りが使われている。護国寺には九室十席の茶室があり、箒庵の願い通り、茶道愛好家たちの人気スポットになった。休日は、各流派が開催するお茶会でにぎわい、人気が高い不昧ゆかりの茶室は予約がなかなかとれないという。

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 この日は、護国寺の計らいで不昧筆「枕流」(ちんりゅう)の掛け軸も撮影することができた。作品は二幅に書き分けられ、一文字が一畳以上ある。あまりにも大き過ぎて掛ける場所がなく、めったに収蔵庫から出ることがないという作品だ。

 そのため撮影場所は、大きな床の間がある同寺の月光殿となった。桃山時代の書院風建築の代表的建造物として知られる元大津三井寺の塔頭、日光院客殿を移築した建造物で、一九二八(昭和三)年に箒庵が都内から再移築した重要文化財だ。床の間の壁画は、狩野永徳の筆と伝えられている蘭亭曲水の水墨画。普段は拝観もできない超一級の場所だった。

 宗旨が違い、不昧と縁もゆかりもなかった護国寺に、これほど多くの品々が残っていることに驚かされるとともに、茶道の総本山にするため奔走した箒庵の熱い思いを感じながら護国寺を後にした。

 (写真・文 本社報道部 伊藤英俊)

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2009年3月2日 無断転載禁止