(23)江戸の松江藩・其の四 お抱え力士・雷電

【手形扇】蜀山人の賛が入っている雷電手形扇。写真は実寸大=相撲博物館蔵
【ゆかりの品】雷電が寄贈した鐘楼に使われていた瓦、煙管とたばこ入れ、長崎で陳景山と酒比べをして勝ち取ったという湯飲み。鐘楼事件などの経緯が書かれている手紙など興味深い品々が残る=東京都港区、報土寺
【初土俵の番付表】雷電が初めて大関になったときの番付表。雷電の名の上には藩の名、雲州の文字が見える。番付表にはこの他にも千田川(せんたかわ)、鳴滝(なるたき)、稲妻(いなづま)ら西方の上位だけでも7人の雲州力士の名があり、雲州力士の黄金時代を知ることができる
【雷電の墓】「昔はこのように手の形をしていた」と話す朝倉住職=東京都港区、報土寺
名をはせた”必殺の張り手”

 史上最強といわれた松江藩のお抱え力士、雷電為右衛門は藩の経済が好転に向かう中、七代藩主・松平不昧(治郷)のもと、江戸大相撲界で一世を風靡(ふうび)する。そんな雷電の勇姿や相撲人生を記す史料は、松江市をはじめ故郷の長野県東部町など全国に多数存在する。今回は東京で出合った雷電の足跡を紹介する。

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 雷電の「諸国相撲控帳」(通称・雷電日記)には、大の相撲好きだった不昧が病気で寝込んだ寛政年間、四カ月にわたり、毎日のように登城して相撲を見せた記述がある。そして病は日ごとに回復していった。松江城三の丸の絵図には、その土俵も描かれている。

 松江の殿様は、大の相撲好きだった。それは出雲国が相撲の起源だからという。そんな説の基になっているのが、古事記の国譲り神話に登場するタケミナカタとタケミカヅチが稲佐の浜で行った力比べ。日本書紀にも出雲国の野見宿祢(のみのすくね)が、大和国の当麻蹶速(たいまのけはや)と日本一の座をかけた勝負に勝ったという記述がある。

 神話や伝承はともかく、相撲が全盛を迎えた江戸時代、力士たちは藩の力と威信を誇示する広告塔でもあった。松江藩でも多くの力士を抱えていた。彼らは雲州力士と呼ばれ、相撲界で欠くことができない存在になっていた。最盛期には、雲州力士なくしては江戸の大相撲が成り立たない、とまでいわれるほどだった。

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 雷電を語る中で必ず出てくるのが”必殺の張り手”。一撃で相手力士を殺してしまうといううわさが流れ、対戦を避ける力士が続出したという。

 東京の相撲博物館にその強さを物語る史料がある。天明期を代表する文人で狂歌師の蜀山人の賛。

 ■(歌記号)百里をも
   おどろかすべき
     雷電の手形を以て
          通る関取
とうたわれた雷電の手形だ。

 そのけた外れな威力を発揮する手形の大きさは、長さ二十四センチ。史料によると、身長は六尺五寸(一九七センチ)、体重は四五貫二百匁(一七〇キロ)。現在の関取にたとえるなら、関脇把瑠都とほぼ同じ体格だ。

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 天明四(一七八四)年、十八歳で信濃国(長野県)から江戸に出てきた雷電は、二十二歳で松江藩のお抱え力士になる。寛政二(一七九〇)年に初土俵を踏み、文化八(一八一一)年までの二十一年間の幕内成績は254勝10敗2分14預。優勝28回。幕内在位36場所。当時最高位だった大関には16年間在位、引退後は松江藩の相撲頭取を務めた。

 本場所が年間二場所だった時代と現在を比べようもないが、昭和の名横綱といわれた大鵬の幕内成績は746勝144敗。優勝32回だ。

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 雷電の墓がある東京都港区の報土寺(朝倉俊住職)を訪ねた。墓前で写真を撮っていると、朝倉住職が「縁起を担いで墓石を砕いて持ち去る人が多く、墓が小さくなってしまった」と嘆く。その墓石の下には雷電が不昧から授かった手玉石があった。境内には雷電ゆかりの鐘楼と釣り鐘。寺が所蔵するお宝の手形に錦絵、愛用の煙管(きせる)やたばこ入れ、雷電が当時の住職と酒の飲み比べをしたという茶碗(わん)なども拝見することができた。

 出雲市の島根県立古代出雲歴史博物館では、七月十七日から雲州力士・雷電らの活躍をたどりながら、相撲の起源、歴史に迫る企画展「どすこい!出雲と相撲」が開かれる。島根では新関取・隠岐の海が誕生、相撲が一段と注目を浴びている時期で、これが機となり、島根とかかわり深い相撲の歴史が新たな関心を呼び、人気の高まりにつながることを期待したい。

 (文・写真 本社報道部・伊藤英俊)


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2009年3月11日 無断転載禁止