(24)江戸の松江藩・其の五 広徳寺と杵築大社

【穐留褝窟(あきるぜんくつ)】広徳寺総門(市指定文化財)に掲げられている不昧筆の額。色彩と書体が強烈な印象を与える=東京都あきる野市小和田
【杵築大社】松平直政が徳川家の安泰を祈願して出雲大社から勧請した杵築大社=東京都武蔵野市境南町
【直政の顕彰碑】杵築大社の境内にある松平直政の顕彰碑=武蔵野市境南町
【松平稲荷社】道路で分離された境内の一角に祭られている松平稲荷社=東京都武蔵野市境南町
 不昧筆の額鷹狩りが縁?

 不昧流と呼ばれる唐風の力強い独特の書風は、書道家の間では広く知られ、各地で作品が確認されている。東京都あきる野市にある広徳寺の総門に、松平不昧(治郷)筆の扁額(へんがく)が掲げられていることを知り、訪ねてみることにした。その広徳寺を地図で調べると、都心から直線距離で約五十キロの山中。事前に不昧とのゆかりを問い合わせてみたが、詳細は不明のままだった。

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 人影もまばらな早朝、都心から地下鉄、JRの中央線、青梅線、五日市線を経由して広徳寺へ向かった。終点の武蔵五日市駅で下車、さらに車で約五分。広徳寺まで二時間以上の道のりだった。

 広徳寺のあるあきる野市は、鎌倉時代には秋留郷といわれ、平地の地域は秋留大地と呼ばれていたのが市名の由来になっている。

 寺の入り口にあった総門は、室町期の面影を残した建造物で、同市内の建築物としては最も古く、市の文化財に指定されている。その総門正面に掲げられた縦六十センチ、横百八十一センチの扁額には、秋留の地名と禅寺を意味する「穐留褝窟(あきるぜんくつ)」の文字、そして「前雲国主松平不昧治郷書」とある。その文字は濃紺色に深彫りされていて、一度見たら忘れられない色彩と書体が脳裏に焼き付いた。

 東京都が行った修復修理で、扁額の裏面の墨書から文政二(一八一九)年に作られたことが明らかになっている。

 「なぜここにあるのか」-。そのいきさつは同市文化財課の担当者に聞いても分からなかった。現松平家当主の松平直寿さん(83)=東京在住=に尋ねてみると、答えは明快。武蔵境(武蔵野市)には松江藩の鷹場と下屋敷があった。寺とはそれほど遠くない場所で、「鷹狩りにきた不昧に、住職が一筆頼んだのだろう」と持論を披露してくれた。

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 帰途、松江藩の下屋敷があった武蔵野市の杵築大社(窪田隆栄宮司)も訪ねてみた。JR中央線武蔵境駅で下車、同駅から徒歩で十分。

 ここは初代藩主松平直政が鷹狩りのために建てた下屋敷跡で、直政は御茶屋を造り、鷹狩りの拠点にしたといわれている。敷地は十二町(一三〇八メートル)四方で、面積は三万六千坪あったといわれる。

 その屋敷内に建てられたのが杵築大社で、直政が幕府の繁栄と天下泰平を祈願して出雲大社から勧請したもの。後に下屋敷の土地は「出雲新田」として開拓され、現在の武蔵野市の発展に大きく貢献することになる。杵築大社は現在も武蔵境の鎮守として、近隣の人々から厚い信仰を得ている。周辺の風景は、都市開発や社殿の移転改築で様変わりした。窪田宮司は「当時を知ることができるのは、古文書だけ」という。

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 その武蔵野市と隣接する三鷹市は、江戸時代には将軍の鷹場(たかば)で、俗に御(み)鷹場村と称されたのが地名の由来という。一帯は鷹場として広く知られ、松江藩では下屋敷がなくなった後も、歴代の藩主たちが鷹狩りで訪れたと想像できる。

 現当主の松平直寿さんが指摘するように、応安六(一三七三)年の創立で、後に北条氏康や徳川家康らからも庇護(ひご)を受けた広徳寺の住職が、当時茶人大名で書の大家としても知られた不昧に一筆懇願したとしても不思議ではない。扁額の完成は、不昧没後の翌年。住職が亡き不昧をしのんで作らせたとも推察できる。不昧の最晩年の書、もしかしたら額の文字は不昧の絶筆だったかもしれない。

(写真・文 本社報道部・伊藤英俊)


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2009年3月16日 無断転載禁止