大田の鳴滝山で鉛採掘坑道跡を確認

江戸時代から鉛を採掘し、良好な状態で残る坑道跡=大田市五十猛町の鳴滝山
 江戸時代、石見銀山の銀精錬に使われた鉛を産出した大田市五十猛町の鳴滝山に、同時代から鉛を採掘した坑道跡が良好な状態で残っていることが島根県立三瓶自然館の中村唯史学芸員の調査で分かった。同所は文献資料に登場するが、遺構が確認されたのは初めて。鉛は石見銀山の銀産出量を飛躍的に高めた銀精錬の灰吹法に不可欠。鉛採掘跡は、石見銀山の銀生産を支えた物資の供給を考える上で貴重な成果となる。

 中村学芸員は二十三日、同町の石見銀山ガイドの会会員の長谷川清則さんらと現地調査を行った。

 坑道跡は鉱脈沿いに水平に掘られ、坑口から直線部分の坑道の長さは約二十五メートル。奥部には幅約六十センチ、高さ約九十センチの四角い江戸時代の手掘りの採掘跡があった。坑口付近などは大正(一九一二-二五年)以降、削岩機で坑道を広げた跡が残っている。付近の岩石から鉛を含む鉱物の方鉛鉱が検出された。

 鳴滝山は「磯竹鉛山」として桃山時代末に開発。石見銀山では銀を採掘した仙ノ山(同市大森町)で鉛も採れたが、江戸中期以降に不足し石見代官・川崎平右衛門が磯竹鉛山を再開発。同所で得た利益を基に作った基金を商人らに貸し付け、利息を天領・石見銀山御料内の鉱山開発に充てた。

 鳴滝山は仙ノ山から約六キロの位置にあり、石見銀山遺跡周辺で、明確な鉛の採掘遺構が見つかったのは初めて。石見銀山は品位の高い銀鉱石とともに、銀精錬に必要な鉛、木炭、マンガンなどが調達できたことも発展の基盤となった。

 中村学芸員は「周辺にほかにも採掘遺構がありそうだ。文献と照合して実像に迫りたい」と意欲を燃やす。石見銀山資料館の仲野義文館長は「石見銀山の銀生産を支えた材料をどうやって調達したかを考える上で貴重。文献から磯竹鉛山の鉛は他の鉱山などにも売られているため、相当の生産があったとみられる」と話している。

2009年5月28日 無断転載禁止