(29)嫁ケ島(上)

【如泥石】渦のような模様を刻んだ円柱形の来待石。消波ブロックの役割を果たす。1980年、嫁ケ島の改修時に宍道湖周辺から集めた。現在進行中の大橋川改修事業でも護岸に如泥石を使用しようという意見もある=写真はいずれも松江市浜乃木町の嫁ケ島
【鳥居】現在の鳥居は明治40(1907)年、琵琶湖と京都を結ぶ疎水工事の設計者として知られる田辺朔朗博士が松江来訪の記念に寄進した
【弁天祠】弁財天小祠(べんざいてんしょうひ)。松江開府の祖・堀尾吉晴の孫・忠晴が1611年、竹生島神社を建てて市杵島姫命を宮島の厳島神社から勧請して祭った
【大石燈籠】明治25(1892)年ごろ、島根県税収長をしていた金子造酒蔵が転勤後も宍道湖の景色が忘れられず寄進。来待石で造られ「清風明月、太白館亀斎」「武蔵国住人金子直建之」「白瀧窟為七造」の文字が刻まれている。荒川亀斎は燈篭をデザインした美術家、石谷為七は石工の名
【詩碑】明治、大正期の漢詩人 永坂石■(土ヘンに棣のツクリ)(たい)の嫁ケ島伝説を詠んだ碧雲湖棹歌(へきうんことうか)の詩碑。 内容は、「嫁ケ島に沈んだという美人は現れず、ただ鮮やかな色の雲が流れる。思いにふけっていると、湖水を取り巻く山並みに夕日が沈んでいく。一幅の山水画を誰か切り取ったのか。春の湖の痕は花嫁衣裳に似てきらびやかだ」
【船着き場?】この下から温泉がわき出ていたという話もあるが、定かではない
 堀尾吉晴も景観絶賛

 松江市袖師町の宍道湖畔。国道9号線沿いにある夕日スポットから嫁ケ島(同市浜乃木町)まで220メートル。島には、松の木とともに白い石造りの鳥居がある。全長110メートル、幅約30メートル、草履のような形をした島の周囲は240メートル。

 周辺を固める臼のような形の石は、松江藩の名工・小林如泥が考案したとされる如泥石。整然と並ぶ光景が水面(みなも)に風情を添えている。

 今回は、松江藩誕生当時から、風光明媚(めいび)な湖の景観を際立たせてきた嫁ケ島を紹介する。

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 慶長15(1610)年。完成目前に迫った松江城の天守閣に上がった堀尾吉晴が、宍道湖に唯一浮かぶ嫁ケ島の眺めに「彼の島は湖中の一勝地なり」と感動したと伝わる。以来、水郷松江のシンボルとして、文豪・小泉八雲をはじめ多くの人々に愛されてきた。

 文献資料で嫁ケ島が最初に登場するのは出雲国風土記。「野代の海の中に蚊嶋(かしま)あり」と記載された。その後、かれんな嫁島の字があてられ、悲運な若妻の伝説も加わって嫁ケ島の呼び名になったといわれる。

 松江藩とのかかわりでは、松江城の築城に嫁ケ島の石が使われたとされる。島根県史に大海崎、忌部などとともに嫁ケ島も石材産地として記された。

 ただ、これまでの研究で嫁ケ島産の石は、松江城の石垣はもとより周辺城下から見つかっていない。本丸の基礎など地底深くに眠っている可能性が推測され、今後の調査に期待がかかる。

 慶長16(1611)年。松江城が完成すると吉晴の孫・忠晴は城下の安泰と湖中の安全操業・豊漁の守護神として広島県宮島の厳島神社の主祭神・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を勧請、竹生島(ちくぶじま)神社を創建した。

 「嫁ケ島」の名が古文書に登場するのは寛文8(1668)年。松平直政の時代、賢政法師が島で雨ごいをしたときとされる。

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 嫁ケ島をシルエットに湖面に沈む夕日を見詰めると、かつて婦人病に霊験があるとされた竹生島神社の弁天様に、多くの女性が詣でたという逸話を思い出した。事実、島に続く東側の湖底には、周囲より少し高くなった水中参道があり、神秘的な島でもある。

 松江開府400年祭で嫁ケ島を主役にした観光イベントの開催を機に、島を守りながら活用を図り、歴史など学習の場も設けようと地元住民を中心に民間組織が結成され、島に渡る機会が増えた。一度は上陸してみてほしい。

 (写真・文 本社報道部 伊藤英俊)

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2009年6月1日 無断転載禁止