(31)うなぎ街道(上) 『鰻屋』と呼ばれていた松本家

【うなぎ談議】松本家に残る菊の紋章と聖護院宮の文字が染め抜かれた小旗(手前右)、過去帳(手前左)、中央の掛け軸はうなぎ小屋や中海につるされたうなぎかごがある明治末の安来の港の風景を描いた。貴重な資料を前に、うなぎ談議に花を咲かせる並河健蔵さん、乾隆明さん、松本佐重さん、佐々木弘さん(右から)ら郷土史家の皆さん=写真はいずれも安来市安来町、松本佐重さん方
【提灯】表に御用の字、裏には菊の紋章
【提灯】表に御用の字、裏には菊の紋章
【往来手形】安来の松源寺が発行した初代の長男佐兵衛のもの。全国各地を巡ったといわれる。
【天秤棒(てんびんぼう)】蔵の中に保存されていた天秤棒。棒の先には松本本家の商標「■(○の中に一)」が刻印されている。
御用商人中海産を関西に

 江戸中期の1756(宝暦6)年、中海では、鰻(うなぎ)の豊漁にわいた。漁師たちはあまりの大漁に売りさばくことができず、弱ったうなぎだけを売り、生きのいいのは海に放したという。

 大量に捕れるうなぎに目を付けた安来市安来町新町の8代目松本佐重さん(83)の祖先、初代佐重は松江藩の許可を得て当時、高値で売買されていた大阪での販売に乗り出した。さらに、強大な権力を持っていた京都の聖護院(しょうごいん)から、御用商人として往来が不便で危険だった街道で安全、迅速に運べるよう助力を得ることに成功した。

 うなぎは安来港から陸路で母里、法勝寺、根雨、四十曲峠を越えて岡山県の美甘、勝山へ向かった。輸送団は20-30人。ルートは水分補給のため川沿いに設け、要所要所にうなぎ池が造られた。勝山からは高瀬舟で旭川を下り、岡山でいけす付きの専用船に積み替え、播州灘を通って大阪や京都へ運ばれた。約7日間の行程だった。

 輸送集団は聖護院宮家から授かった小旗と提灯(ちょうちん)を持って移動したことから沿道の住民から「聖護院献上鰻」と呼ばれていた。

 運ばれた道はうなぎ道、うなぎ街道とも呼ばれ、現在でも各所でその面影を見ることができる。松本家に残る多数の資料から当時の様子を紹介する。

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 初代佐重は、松平松江藩初代藩主・直政とともに信州松本から松江に移ったとされる。同家に残る過去帳は、商才にたけた初代が安来宿に移り住み、松江、本庄、大根島、美保関など宍道湖、中海周辺で捕れる魚を手広く商った魚屋と記す。屋号は『松江屋』。通称『鰻屋』と呼ばれていたという。

 菊花の紋章と聖護院宮の文字が入った紺染めの小旗と箱ぢょうちんは、番所や道中で特権が使える特別許可証。初代佐重が聖護院宮に多額の礼金を奉納し入手した。

 その効果として、過去帳には根雨の川渡しで、既に出てしまった舟をちょうちんを振りかざして呼び戻し、乗客を降ろして渡し船を利用した記述がある。小旗とちょうちんが絶大な力を発揮したことをうかがわせる。

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 現在、松本家の家業はスポーツ用品販売。店の前は埋め立てられ、整備された湾岸道路と安来港を望むが、かつて、付近一帯を含む中海は日本有数のうなぎの産地だった。最盛期は幕末から明治初期。松本家4代目佐重のころとされ、年間1万5千貫(約56トン)のうなぎが大阪へ出荷された。

 そんな安来の港を知ることができる貴重な一文がある。

 「港に沿う漁師町の海岸には鰻の番小屋があった。(中略)大阪へ送った出雲鰻はもっぱらこの番小屋のいけすから供給されたものであった」。安来市出身の陶芸家・河井寛次郎がエッセー集「火の誓い」で描写している。町のわんぱく者だった河井が少年時代、明治30年前後の様子を回想した。

 また、出雲産うなぎが大阪の食文化にあたえた影響として、郷土史家の門脇等玄さん(86)=同市在住=は著書「旅路はるか」の中で「『出雲屋』即うなぎ料理、大阪に300軒の『出雲屋』が乱立した」と記す。今でも数多いうなぎ料理店に「いずもや」「出雲屋」の名が残るのは、往時の出雲産うなぎの隆盛をほうふつさせる。

(写真・文 本社報道部・伊藤英俊)


メモ

 聖護院 京都にある修験道総本山の寺院。江戸幕府公認の修験道教団として強大な権力を保持していた。初代松本佐重が手に入れた聖護院宮の小旗とちょうちんは、一介の商人が入手することは不可能であったとされる。徳川親藩だった松江藩の政治力と、松本家に残る資料から聖護院との強いかかわりを感じさせる。



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2009年7月6日 無断転載禁止