(32)うなぎ街道(中) 悪路の中国山地越え

【うなぎ宿と池】中央の池と後方の家が、うなぎ街道がにぎわった明治期の面影をとどめる。周辺に池が数カ所在り、60~80のうなぎかごが一夜を過ごした。南波さんが古老から聞いた面白い昔話を教えてくれた。うなぎが「舟場の渡しを渡る」と聞けば、根雨宿中の子どもたちが手おけを持って駆けつけ、うなぎを生かすため、かごに水をかけた。手伝いの駄賃として子どもたちは、死んだうなぎがいたらもらえたという=鳥取県日野町舟場、水田侑さん方
【輸送姿】安来市立民俗資料館赤江民俗資料収蔵庫に保存されていた、うなぎの運搬に使われた天秤棒とかご、帽子。同市教育委員会の舟木聡さんに当時の輸送姿を再現してもらった=安来市赤江
【石柱】うなぎ街道は東母里、法勝寺を経由し、鳥取県伯耆町二部で出雲街道と合流する。街道の要衝だった旧二部宿の出入り口には、嘉永2(1849)年の年号とともに「右びんご道 左大さか道」と記された石柱が立つ=鳥取県伯耆町二部
【四十曲峠】出雲街道最大の難所として知られている県境の峠。右は美作国、左は伯耆国の文字。明治になって峠道が改良され、大八車が通れるようになるまで、うなぎは天秤棒で運ばれた=岡山県新庄村
【高瀬舟の発着所跡】中世から近世、物資輸送のハイウエーだった旭川。中国山地の鉄、木材などと四十曲峠を越えてきたうなぎもここで高瀬舟に積み替えられ、岡山港経由で京阪地方へ送り出された=岡山県真庭市勝山町
【間地峠(まじだわ)】茶店の前にあったとされる峠地蔵
【間地峠】矢印の方向には、天気がよい日に美保関や隠岐の島も見ることができる。江戸時代の参勤交代では、藩主も出雲国との別れを惜しんだとされる場所でもある
【間地峠】うなぎ街道が通る峠に建っていた茶店跡を記す石柱。人馬の往来が激しく、万延元(1860)年ごろ、嘉助という人物が茶屋を開き、大繁盛した。快く思わなかった村人たちは小屋を打ち壊し、福吉村の作兵衛の仲裁で茶店は村方で再建し、嘉助は毎年村に礼金を差し出す契約書を取り交わして和解した。明治初めは3軒の茶店があり、交通の大動脈だった=鳥取県伯耆町間地
 頑強な輸送隊川沿いに

 中海で水揚げされたうなぎは、かごに入れられ、天秤棒(てんびんぼう)につるされて安来港を出発。伯太川沿いに切り開かれた道を岡山県真庭市勝山町の高瀬舟の渡しを目指し進んだ。地図を広げると、道はほぼ直線。水分補給が欠かせないため、常に川沿いに最短距離をとり、四十曲峠をはじめ多くの峠や谷越えをいとわなかった。

 一つのかごには、うなぎ1貫。水分を保ち呼吸ができるよう、中に中海特産の海藻を入れて3段重ねに。竹で編まれたかごは、うなぎを押しつぶさない、一定の空間ができるように作られた。一番上には弁当や荷物を入れる浅いかごのふたを載せ、天秤棒の前後につるす。

 天秤棒は太さ16センチ、長さ182センチ。しなりはなく、頑丈な作りで、ずっしりとした手応えがある。総重量は20-30キロになる。

 20年以上、うなぎ街道を研究する鳥取県伯耆町溝口の南波睦人さんは「相当の体力がないと、悪路が続く中国山地のうなぎ道を歩き通すことはできない。輸送隊の人選は長身で頑強な若者をえりすぐった。日当も高額で米1俵が1円20銭だった明治初期、当時の賃金相場の4倍に当たる1日50銭を支払った」と説く。道は陸路で勝山まで3日だった。

 今回は、南波さんと、松江市文化財保護審議会委員の乾隆明さんの案内で、うなぎ街道の見どころを紹介する。

(写真・文 本社報道部・伊藤英俊)

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2009年7月13日 無断転載禁止