(33)うなぎ街道(下) 全盛時代伝える新資料

【出雲屋】店舗前の看板に「出雲屋鰻まむし」とともに「関西随一出雲国産」(写真右下)の文字が見える。創業当時、大阪の道頓堀付近にあった店舗で明治末期に撮影
【トラックも看板】昭和初期、うなぎの運搬に使われたフォード社のトラック。乗用車でなくトラックにお金をかけたのが大阪商人らしい。人の目を引いたのがよく分かる
【京橋川魚市場跡】出雲産うなぎの全盛期だった明治期から、うなぎの専売契約を交わした大阪川魚株式会社の前身。江戸時代から川魚専門の市場があり、四十曲を越えたうなぎもここで売買された可能性が高い=大阪市都島区片町、京橋北詰
【土佐堀川】江戸時代各藩の蔵屋敷が集中していた。松江藩の蔵屋敷は左岸、前方の淀屋橋の奥にあったとみられる。右は中之島=大阪市、栴檀木橋(せんだんのきばし)から撮影
 道頓堀の「出雲屋」大繁盛

 明治期に300軒の「出雲屋」を名乗る、うなぎ料理店が大阪で乱立したとの資料を手がかりに、関西の料理店に片っ端から電話をかけたところ、1軒の老舗で出雲産うなぎの全盛時代を知ることができる写真が見つかった。

 島根県内の郷土史研究家にも知られていない貴重な新資料。中海や宍道湖で水揚げされた天然うなぎが、大阪の庶民にもてはやされ、大量に消費されるなど、大阪の食文化に深くかかわったことを実証する。

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 老舗は大阪市中央区東心斎橋のうなぎ料理店「いづもや」。創業は明治9(1876)年。食紅商で大のうなぎ好きだった初代末吉が、行商先の松江を訪れた際に出合った出雲産のうなぎ料理にほれ込んだのが縁という。帰郷後、大阪の道頓堀にうなぎ料亭「出雲屋」を開店することになった。

 4代目の吉田喜一郎社長(71)は「亡くなった父や祖父から、昔は浜名湖での養殖が一般化するまで、うなぎは天然物だけで、大阪に運ばれた出雲の良いうなぎを使っていたのが屋号の始まりと聞かされていた」と、昔をしのびながら感慨深そうに話す。

 戦災で家も家財もすべてが焼失した中、写真が数枚残った。

 明治末期、店の大掃除の日に撮った従業員の記念写真には「出雲屋鰻(うなぎ)まむし」の看板と「関西随一出雲国産」の文字が誇らしげに見える。最盛期は3店舗、従業員も150人を超える繁盛ぶり。うなぎを運び込む作業場や、店内で料理に舌鼓を打つ客の姿を撮影した写真なども伝わる。

 ユニークなのは、大正末期に同店が結成した「出雲屋音楽隊」。「安い」「うまい」「早い」経営がヒットしたのを受け、三越少年音楽隊をまねて宣伝用に設けた。オペラの序曲などを演奏して話題になった。作曲家の故服部良一さんも在籍し、制服姿の記念写真も大切に保存されている。

 昭和の時代になると、ハイカラ好きの2代目安次郎が、当時珍しい米国フォード社のトラックを購入。荷台に「いづもや」の店名を書き入れ、うなぎを運ぶようになった。

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 「いづもや」の取材を終え、松江藩の蔵屋敷があった土佐堀川の左岸などに足を伸ばした。周辺は商業ビルが立ち並び当時の様子を知るべきものはない。モダンな観光遊覧船が川を行き交う。うなぎは、ここから水路を利用し各料亭などに販売されたのだろう。

 (写真・文 本社報道部・伊藤英俊)

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2009年7月21日 無断転載禁止