尼子義久の幻の書状が里帰り

中村俊郎さんが購入し、島根に”里帰り”した尼子義久の書状=大田市大森町、石見銀山資料館
 出雲の戦国大名・尼子義久が富田城落城の2年半前に記し、県外に流出していた書状を、大田市大森町で義肢装具メーカーを経営する中村俊郎さん(61)が購入した。実物を地元の研究者が見たことがなく、行方不明だった「幻の書状」。尼子氏滅亡直前の時代状況を伝える貴重な資料で、研究者が”里帰り”を歓迎している。

 書状は、永禄7(1564)年4月15日付。中村さんが石見銀山の領有を争った戦国武将の資料を収集する中、熊本市の古書店の目録にあるのを見つけ、購入した。

 尼子氏の重臣・立原源太兵衛(たちはらげんたびょうえ)にあて、毛利元就に攻められた際、宍道氏が寝返ったので、宍道氏が治めていた岩倉(雲南市加茂町岩倉)の領地を、勲功の賞として立原に与える-との内容。

 尼子氏を研究する島根大教育学部の長谷川博史准教授(44)によると当時、尼子氏の本拠・富田城は毛利勢に周りを囲まれ、義久、立原とも籠城(ろうじょう)して戦っており、永禄9(1566)年の落城は時間の問題。書状は、24歳の義久が家臣の士気を鼓舞し、結束を強める目的で記したが、毛利氏に勝てば領地を与えるというもので、空証文となった。

 永禄7年当時、石見銀山は毛利氏が完全に制圧。領国経済で銀山が中心的な役割を果たし始めており、毛利氏は石見銀山を背景に軍事力を強化。生き残りをかけた国人勢力が毛利になびき、尼子氏の力が雪崩を打って縮小した。

 書状は1968年、明治100年を記念し東京であった古書展に出品。展示会の目録に掲載された写真を手がかりに、「宍道町史史料編」に収録されていた。

 長谷川准教授は「さまざまな情報を含んだ良い資料。地元で保存してもらえるのは非常にありがたい」と喜ぶ。中村さんは「島根の歴史の調査研究に広く活用してもらえればうれしい」と話す。

 書状は、石見銀山遺跡の世界遺産登録2周年を記念し31日まで、大田市大森町の石見銀山資料館で開催中の「戦国・西国5大名展」で展示されている。

2009年8月24日 無断転載禁止