(38)幕末史を飾った八雲丸(下)

【西園寺公望が宿泊した宿札】鎮撫総督・西園寺公望が宿泊した宿札(右)。納められていた箱には随行者や警備を担当した松江藩士の名前などが残されている=出雲市大社町、藤間家
【木佐家に残る冠台】鎮撫総督・西園寺公望が出雲大社参詣で宿泊した木佐家(出雲市)で使用した冠台(床の間)。掛軸はその後、西園寺から贈られた。寒い季節で、火鉢なども当時使用されたものとされる=出雲市平田町、平田本陣記念館
【玄丹お加代】明治9年5月26日、松江市白潟天満宮近くにあった料亭、望湖楼で撮影された玄丹お加代(前列右から2人目)。鎮撫使事件から9年、若かりしころのお加代と当時の風俗もよく知ることができる=出雲市下古志町の高見良平さん所蔵、中央の男性は高見さんの曾祖父・台次郎さん
【木艦第二八雲丸の絵】1862年、長崎で購入した木艦第二八雲丸の絵(個人蔵)
第二八雲丸の航跡
苦難極め宮津港で拘禁

 徳川幕府から明治新政府へと時代が大きく変わろうとしていた時、松江藩の運命を左右する「山陰道鎮撫(ちんぶ)使事件」が発生した。この時の主役が第二八雲丸である。山陰道鎮撫使事件と聞けば、出雲女の義■(人ベンに夾)心(ぎきょうしん)を発揮した玄丹お加代の武勇伝が知られているが、多くの郷土史家は「八雲丸」を連想するという。今回はその航跡を追ってみよう。

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 明治元(1868)年1月、山陰道鎮撫総督に任命された西園寺公望は、薩摩・長州の藩兵を中心に編成した官軍を率いて京都を出発する。地方の動乱を鎮め、新政府に対する各藩の意思を確認するのが目的。圧倒的な軍勢は一路、山陰道を下向した。

 同じころ松江藩では、京都駐留の藩兵に第二八雲丸で兵糧を輸送する準備が進められていた。

 だが、航海は苦難を極める。1月14日、京都・敦賀港を目指して中海の大井沖を出航した第二八雲丸は、美保関港を過ぎて間もなく暴風に遭う。機関故障で航行不能になり、美保関港に停泊することになった。

 ようやく18日に再出航したものの、再び暴風のため故障し、但馬(兵庫県)の津居山港、丹後(京都府)の宮津港に避難を繰り返す。

 ところが宮津藩では、新政府に対する藩論が定まっていない。一両日中に鎮撫使一行も到着するため、第二八雲丸は即刻退去を求められ、やむなく荒れる海へ乗り出した。目的地の敦賀港にたどり着き、無事に荷揚げを終えて帰国の途に就いたが、ここでも故障。またもや宮津港に入港した。

 悪いことに、第二八雲丸の行動は、但馬に滞在中だった鎮撫使一行から新政府に対する「威嚇」「嫌がらせ」ととられてしまう。船は宮津港に拘禁され、日本史の中では宮津港拘禁事件として記録されることとなった。

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 この宮津藩もだが、薩長の武威を背景にした鎮撫使一行を迎える各藩は戦々恐々とした。気の使い方は想像を絶し、金品献上をはじめ、宿泊地ではありとあらゆる接待が行われたという。

 宴会といえば後日、窮地に立つ松江藩を救ったのが酌婦玄丹お加代。「体を張って、傍若無人に振る舞う一行をなだめた」と今も語り継がれる。松江市灘町の白潟公園には銅像とともに、鎮撫使が白刃で貫いたかまぼこを、平然と口に受ける姿のレリーフがある。

 とにかく、松江藩は長州征伐にも参加した徳川親藩として、元から新政府にはにらまれている。最悪の気象条件や機関故障に伴う宮津港拘禁事件では一時、家老の切腹や朝廷への領地返上など、とてつもない要求が突き付けられた。その後、誤解は解けたが、第二八雲丸の不穏な動きをめぐる代償は、15万両の賠償金と奥羽征伐への派兵300人という重いものだった。

 「勝てば官軍」。郷土史家の間では、宮津港拘禁事件が起こらなくても、薩摩、長州の管理下にあった山陰道鎮撫使による難題は避けることができなかった、とされている。

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 シリーズで紹介した2隻の八雲丸の秘史には、日本史や世界史がダイナミックに絡んでいる。しかし松江藩は明治元年6月、多発する故障に懲りたのか第二八雲丸を売却する。翌月には鉱石運搬中の第一八雲丸が、能登沖で座礁、沈没。わずか1カ月余りで2隻の蒸気船を失ってしまう。建造が決まっていた第3の新船の購入は、版籍奉還で幻に終わり、松江藩の海軍史は幕を閉じた。

  (写真と文 本社報道部・伊藤英俊)


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2009年10月19日 無断転載禁止