(32)雑賀町(SAIKAMACHI)松江市 江戸期の町割り面影残す

藩制時代の町割りの様子が、現在でもよく分かる松江市雑賀町地区の全景
雑賀町の民家に残る鎧(よろい)や兜(かぶと)。昨年秋の雑賀文化祭で展示された(雑貨公民館提供)
雑貨小学校の玄関にある約4メートルの岸清一像
戦前2回にわたって内閣総理大臣を務めた若槻礼次郎像(雑賀教育資料館蔵)
 碁盤の目のような江戸時代の町割りの面影を残し、民家が連なる松江市雑賀(さいか)町。車1台がやっと通れる狭い二丁目の通りは、東西約600メートルもあろうか。真っすぐ端から端まで歩くと、家々の装いは新しいが、近辺で育った記者にとって、雰囲気は昔と大差ない。城下町の中でも特に郷愁を感じる一角だ。

 「雑賀」の名は、遠く戦国時代の歴史ロマンに彩られている。堀尾吉晴が松江入府の際、紀州(和歌山県)の精強な雑賀鉄砲隊を配下に組み入れ、連れてきたのが始まりという。外敵に備え、現在の七丁目北側に五丁(5区画)続く鉄砲町を構えて鉄砲組を居住させ、精鋭は「雑賀衆」と呼ばれた。その後、京極氏を経て松平氏の時代、雑賀町の町名が定着した。

 特殊技能を秘めた雑賀の下級武士団は算術などの素養を伝え、貧しいながら向学心の強い地域だったらしい。明治維新前後までに、二十を超す寺子屋や私塾が誕生。明治6(1873)年にはこれらを洞光寺へまとめ、松江最初の小学校(現雑賀小学校)が開校した。

 それ以降も勉学の機運は衰えず、総理大臣を2度務めた若槻礼次郎、近代スポーツの父・岸清一をはじめ郷土の偉人を多数輩出している。

 今も雑賀小には「雑賀魂」という言葉がある。学問に打ち込んで身を立て、何らかの道で日本一になり、世のためになれという意味だ。

 元校長で、隣接する雑貨公民館の福岡修之館長は「児童らは”雑賀魂”に励まされて勉強した。その姿は現在も変わっていません」と話し、先人と伝統への感謝を忘れない。

 雑賀地区では、碁盤目状の道を基に「何丁目の何丁目」という形で位置を表した。同様に排水溝も整備され、合理的な町並みが既に約300年前にできていた。

 (文と写真 本社報道部・小滝達也)

2010年1月11日 無断転載禁止