(43)本当に40間「四十間堀」

【松江城の外堀】四十間堀(右)をはさんで左が内中原町、右が外中原町。現在の堀幅は約25メートル。京極時代までは約3倍の広さがあった=松江市黒田町の松江堀川ふれあい広場から撮影
【土手】築城された当時の姿をとどめる内堀。浸食が激しく土留めのくいなどで昔の姿が保存されている=松江市内中原町
【京極期の周辺図】左端が四十間堀。幅と深さが6カ所にわたって墨書されている。右上部の赤い部分は松江城=香川県の丸亀市立資料館蔵「寛永年間松江城家敷町之図」より
 絵図に記され延々1000メートル

 松江城を囲む堀の総延長は内堀、中堀、外堀を合わせて7~8キロに及ぶ。水都・松江の変遷は、いつの時代でもこの堀川の姿と密接に結びついている。

 本紙の新年5日付1面に、香川県丸亀市で確認された京極期の松江城下町図が掲載された。絵図には堀の幅や深さが詳細に記されており、このうち「四十間堀」は文字通り幅40間(約72メートル)以上の堀で、南北1000メートルにわたって延びていたことが分かった。

 堀の規模は戦国の世なら超極秘の軍事情報で、具体的な数字を記した絵図の出現は、幕藩体制の安定を物語る。正保年間(1644~48年)、3代将軍・家光が全国の大名に提出させ、「出雲国松江城絵図」(国立公文書館蔵)もその一つだ。

 松江城絵図では、書き込み30カ所のうち、堀幅40間超の記載は1カ所しかない。ところが、新たに見つかった京極期の松江城下町図には書き込みが71カ所もあり、四十間堀は6カ所すべての個所で40間以上。数字を地図上に落とすと、かつての堀幅は市道・城山西通りまで広がる。

 市歴史資料館整備室の西島太郎副主任の案内で、松江城下町図を手にビル屋上から四十間堀方面を眺めた。かつて堀だった辺りは現在、何百軒もの民家やビルが密集している。現在の堀川の光景から、市民の多くは築城当時のホラ話と思っている人が結構多いが、実際に広大な幅四十間の堀が広がっていたわけだ。

 城下町の開発が進められ、堀川がほぼ現在の規模に収まったのは、松平期とされている。下って昭和46(1971)年、水田だった四十間堀の西側に城山西通りが貫通すると、宅地化は一挙に進展した。

 古絵図にだけ存在する松江市内中原町の中堀は住宅密集地となり、堀の痕跡は消えた。ただ町内を歩くと、埋め立てたと思われる地面の起伏のほか、見通しがきかない丁字路や鉤(かぎ)型路、袋小路があり、昔の町並みをわずかに感じることができる。

 一方、中堀から内堀へ足を伸ばすと、亀田橋から稲荷(いなり)橋にかけて石垣がない土手の堀が続く。堀尾・京極時代は、城地を除けば石垣で護岸した堀は造られず、貴重な築城当初の面影を今に残す場所でもある。土手は堀川遊覧船の小さな波でも浸食されるため、水面に見え隠れするくいや板、網で土留めしている。

 西島副主任は「武家屋敷には舟を入れる設備があり、日ごろから城下の行き来には舟が使われた。人々の暮らしと密接に結びついていた堀の姿も知ってほしい」と話した。

 写真・文 本社報道部 伊藤英俊


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2010年1月18日 無断転載禁止