(44)朝鮮ニンジン

【千両箱】「弐拾壱番 金千両入」と書かれた千両箱(手前)。手にしている小判は享保小判で、箱の中に左から天保小判、万延小判(2枚)が並んでいる=松江市殿町、松江郷土館
【裏書き】箱の裏に「弘化二(1845)年 新出来 人参方」と記されている朝鮮ニンジン専用の千両箱
【御種人参】松江市が歴史館展示用に特注した白参と呼ばれる白い朝鮮ニンジン(手前左の5本)と、現在生産されている赤参=松江市八束町、JAくにびき
【御用人参箱】嘉永三(1850)年秋に柏木家3代目の定三郎が買い求めた御用人参箱。「貳」の番号から、幾つもあったと思われる=松江市八束町の柏木豊さん方
【幸神社】人参方が寺町に役所を移すと、その鎮守社として建てられた=松江市寺町
【人参方跡】”人参方”の地名とともに現在も残る役所跡の屋根=松江市寺町
 栄光示す専用「千両箱」

 千両箱のふたに「弐拾壱番 金千両入」、裏底には「弘化二年 新出来 人参(にんじん)方」とある。1845年製作の箱だ。時代劇でおなじみのアイテムだが、朝鮮ニンジン専用、それも通し番号付きには初めてお目にかかる。松江市殿町の松江郷土館。松江藩で朝鮮ニンジンの果たした役割がいかに大きかったか、所蔵の千両箱から伝わってくる。

   ◇   ◇

 日本の朝鮮ニンジン栽培は、8代将軍吉宗の殖産興業策として始まった。自生に頼る中国と朝鮮で採り尽くされ、17世紀ごろには品不足。日本でも需要に反比例して輸入量が減り、価格が高騰したからだ。「出雲国朝鮮人参史の研究」(小村弌著)によると、松江藩では6代藩主・松平宗衍(むねのぶ)が栽培を手掛けたという。

 延享2(1745)年の宗衍の初入国当時は、相次ぐ風水害やイナゴの害で藩財政は最悪。豪商の献金などでしのぐ中、江戸藩邸内で宝暦10(1760)年、試験栽培に着手した。その後、幾度も挫折しながら、のちに「雲州人参」ともてはやされる逸品を生み出し、日光神領、会津藩と並ぶ大産地に。収穫の大半は陸路、長崎に運んで大部分は輸出され、莫大(ばくだい)な利益をもたらした。

 天保元(1830)年に朝鮮ニンジン専用の金蔵が新築され、弘化年間に1棟増築している。蔵には専用の千両箱が山積みされた。郷土館で目にしたものは、まさに当時作られたものだった。

 栽培事業を取り仕切る人参方は弘化4年、独立の役所となる。嘉永4(1851)年の「諸役所御有物高」では、総計32万4777両のうち人参方5万7099両と記され、御札座(藩札製作所)、木実方に次ぐ資金を有していた。こうしてニンジン資金は藩財政改革の立役者となり、黒船が来航した幕末には新鋭軍艦2隻の購入資金になるなど、軍事費の中核を担った。

 朝鮮ニンジンの栽培地は津田、古志原など市内近郊のほか、三瓶山、大原郡、出雲市、斐川町まで広範囲。現在も産地として知られる大根島(松江市八束町)では天保年間に栽培が始まり、面積は約5町6反18歩という記録が残る。ただJAくにびきによると、大根島の今季出荷予定者は2人、収量は7アールで245キロ程度にすぎない。

 松江開府四百年を機に、市は朝鮮ニンジンの名称を「御種(おたね)人参」に統一し、他の朝鮮ニンジンと区別するという。栄光の歴史が、いつの日か復活することを祈るばかりだ。

 (文・写真 本社報道部・伊藤英俊)


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2010年2月15日 無断転載禁止