(49)機械化農法と鈴木農場

【刈り入れ時】羊蹄山のすそ野を開拓した鈴木農場でのトラクターによる収穫風景。大正年代に撮影=鈴木家所蔵、以下、同農場の写真はいずれも鈴木家所蔵
【開墾】農場の広さは東西1800間、南北450間。農場の西端から東を望む。明治30年の撮影
【仮事務所】倶知安町における出雲農場(のちに鈴木農場)の仮事務所と開墾中の農地。明治28年、入植当時の撮影
【雪車で運搬】冬季、雪車で運搬する光景。倶知安原野、明治31年春、鈴木農場内
【トラクター】鈴木重慶が米国留学中に運転実習したトラクター。明治30年代の撮影
【バターを作る重慶】北海道大学の製酪室でバターを作る重慶と、たる型バターチャーン。明治43年撮影
【搾乳機】搾乳機。写真に説明はないが、明治40年ごろの鈴木農場と思われる
【美保神社に残る資料】美保神社に残る出雲農場(のちに鈴木農場)の資料と横山宏充禰宜(ねぎ)=松江市美保関町、美保神社
 時代の先端駆け抜ける

 明治の時代、北の大地で夢を追った松江藩ゆかりの人々の中に、前回紹介した松平農場とは別の民間グループがある。

 中心人物は、松江市殿町生まれの鈴木重慶(1877~1938年)。

 彼が開いた「鈴木農場」は挫折の運命をたどるが、アメリカ仕込みの機械化農法、酪農経営を北海道に持ち込んだ先駆者として、開拓史に異彩を放つ。

 明治25(1892)年、北海道庁は特典を設けた「団結移住に関する要項」を定め、各府県に移住者の募集を呼び掛ける。

 3年後、重慶は美保神社(松江市美保関町)の主典を務めた父の命を受けて北海道に渡航。美保神社などの神職らとともに現在の倶知安(くっちゃん)町に出雲農場を開設する。

 美保神社に残る資料や重慶の五男で鳥取大学名誉教授の鈴木■(注:■は木へんに僕)実さん(81)=鳥取市湖山町北=によると、倶知安の現地で国から借りた出雲農場の面積は54万坪。後に重慶が、美保神社などから大半の農地の権利を買い取って、「鈴木農場」とした。

 当時の農場主には珍しく、重慶は自ら開墾を指揮した。さらに、明治36(1903)年6月から4年間、アメリカへ留学。祖父の半左衛門が松江藩で軍艦奉行だった和魂洋才のDNAのせいか、米国での体験や研究成果を生かして、鈴木農場に農場経営の最先端技術と、大規模農機具を導入した。

 畜産で名高いラガー農場を訪ねて経営学と練乳工場の運営を学び、ニューオーリンズで開墾にも従事した。帰国後は、東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の助手などを経て、再び倶知安の開拓事業に復帰した。

 その後の鈴木農場には、高価な舶来農具が相次いで登場。搾乳機とそれを動かす蒸気原動機、回転刃を使った草刈り機・モーア、脱穀機など。人力頼りの農作業しか知らない村民は、目を見張ったという。

 しかし、羊蹄山山ろくの倶知安は営農には過酷な無水地帯。過大投資や凶荒による小作料の未納などが響き、最終的に農場は人手に渡る。ただ、時代を先取りした新技術の導入は、雪印乳業の前身である酪連(興農公社)などに引き継がれ、北海道の大規模営農の礎となった。

 くしくも、倶知安に隣接する京極町では、堀尾家断絶後に松江藩主となった京極家の子孫が、大農場を開設していた。京極町史は、鈴木農場と重慶に関する記述の中で「鈴木ほどの先覚者に時代がついて行けなかった」と明確に位置付けている。

 文と写真 報道部・伊藤英俊

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2010年3月22日 無断転載禁止