(50・最終回)堀尾吉晴・栄光の軌跡

【二俣城跡】城郭の基本的な姿は今川氏や徳川氏によって形づくられたが、石垣や天守は堀尾宗光が兄の吉晴とともに大改修した。昨年の発掘調査では本丸中仕切り門の礎石と石垣の一部が確認された。中央後方は天守の下に築かれた石垣。写真は現地説明会の資料作りをする浜松市の職員=静岡県浜松市天竜区二俣町
【出土物】浜松城天守門の発掘調査で出土した堀尾時代の瓦片=浜松市中区元城町
【案内板】「家康築城の頃の石垣」と説明されている浜松城の石垣。近年の調査研究で石垣の建設は堀尾時代と判明した=浜松市中区元城町
【浜松城】天正18(1590)年、豊臣秀吉が天下統一を遂げると、17年間在城した徳川家康に代わって堀尾吉晴が入城。石垣と瓦ぶきの天守を建築した。昨年の発掘調査では堀尾時代に建てられたと思われる天守門の礎石も確認された。現在、見ることができる天守は昭和33(1958)年に再建された=浜松市中区元城町
【吉晴生誕地】現在は堀尾跡公園として整備され桜の名所として知られる。中央の橋は吉晴の子といわれている金助と母の情愛物語の舞台になった裁断橋(復元)=愛知県大口町御供所
【堀尾邸趾】生誕地を記す記念碑と吉晴を祭る堀尾社=愛知県大口町御供所
 家康の城実は吉晴築く

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、3代の主君に仕え、彼らの戦の大半に参戦し、出世魚のように大名に上りつめていった堀尾吉晴(1543~1611年)。尾張の一介の郷士にすぎなかった吉晴が、出雲・隠岐24万石の領主になるまでの栄光の足跡を、最新の研究成果を交えながら紹介する。

 最新の築城技術

 島根県外で堀尾吉晴の足跡を知ることができる史跡は少ない。訪れた静岡県浜松市の浜松城も、徳川家康が築いた城と知られている。しかし、浜松市が昨年、実施した発掘調査などから、浜松城の本丸と周辺の石垣は、堀尾吉晴が築いたことが決定的になった。同市文化財課の鈴木一有主任は、織田・豊臣系と徳川家の築城技術の差を比較しながら「家康の後、最新の築城技術を持つ堀尾氏が浜松城に入って石垣を築いた」と説く。さらに存在自体が疑問視されていた天守も「出土物などから吉晴が瓦ぶきの天守を建築した可能性が高い」とみる。

 堀尾時代、10年間の勢力範囲、領地は浜松市から天竜川沿いに長野県境近く、北遠(静岡県西部の旧国名、遠州の北部)まで及んだ。浜松市内から二十数キロ。天竜川を見下ろす山頂に残る二俣城と鳥羽山城は吉晴の弟の宗光の居城で、兄と協力し大改修を実施。石垣や天守を持つ近世城郭に生まれ変わった。発掘調査で昨年暮れ、本丸の入り口に中仕切り門の礎石が発見され、本丸周辺の概要も明らかになるなど、地元でもほとんど知られてこなかった堀尾氏の実像が、急速に明らかになってきた。

 一方、松江市でも研究が進む。同市文化財課史料編纂(へんさん)室の福井将介専門調査員が、近く発表する「堀尾吉晴・忠氏父子に関する基礎的考察」で、吉晴の佐和山(滋賀県彦根市)時代の領地目録から、秀吉の直轄地6500石の代官を務めたことが判明した。吉晴の領地は、秀吉の直轄地をはさんで7割以上が佐和山城から20キロ以上離れた高時川と姉川流域に集中。残りは交通の要衝・中山道沿いにあった。

 飛び地を治める

 浜松時代にも、領地に隣接した秀吉の直轄地2万石の代官を務めたほか、飛び地として尾張国内の森山・丹波・桂(愛知県あま市)に約1千石、伊勢国英多(あかた)郷(三重県亀山市)の峯城を拠点に約2千石を所有していたことが分かった。これらの飛び地が領地の浜松12万石に含まれていたかどうかは不明だが、吉晴の石高、権勢は、これまで知られていた以上に大きかったと想像できる。

 さらに、吉晴は五大老と五奉行の間を調整する三中老のひとりとなり、慶長4(1599)年、越前府中領(越前市武生)の5万石を受領する。

 塗り替わる歴史

 吉晴の足跡や功績は、信長や秀吉、家康ら戦国大名たちの陰に隠れてこれまで、ほとんど知られることがなかった。しかし、近年、吉晴の研究が進むに連れて新事実が次々と見つかり、歴史が塗り替えられている。

 浜松城の石垣に建てられていた説明板の「家康築城の頃の面影を残す貴重な石垣」は、主語が「堀尾吉晴」に書き換えられるのも遠くはなかろう。今回の取材では、そんな思いを実感させられた。

 (写真・文 本社報道部 伊藤英俊)

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2010年3月29日 無断転載禁止