<4>防御の堀が水都の顔に

水面(みなも)に松江城山の緑を映す堀川。遊覧船が宇賀橋にさしかかり、水都ならではの叙情が漂う=松江市北堀町の北堀橋から撮影
 城郭と防御施設としての堀は、言うまでもなく切っても切れない関係にある。

 松江城(松江市殿町)を取り囲み穏やかに水をたたえる幾筋もの堀川は、築城とともに人為的に造られた。その後、埋め立てられたり、狭まったりした場所もあるが、総延長7、8キロの内堀と外堀が往時の面影を伝えている。原形に近い掘割と天守がセットで残存する例は、全国的に珍しいという。

 弥生時代の環濠(かんごう)集落があるように、堀のルーツは古い。戦国時代の山城は山腹を削り、水のない空堀を配した。近世の城郭は水を引き入れた水堀を備え、城や城下町への敵の侵入を食い止めるため、いざとなれば堀に架かる橋を落とした。

 松江城の築城は、5年がかりの大事業だった。中でも堀の建設に力を入れ、松江市教育委員会文化財課の山根正明専門官は「松江開府の祖・堀尾吉晴と家臣団が、持てる知恵と技術のすべてを投入した」と話す。

 とりわけ城の北側に位置する北堀は丘陵を切り崩す難工事。「堀尾吉晴-松江城への道」(山根正明著、松江市教委刊)によると、塩見縄手付近の堀は幅90メートル、長さ234メートルあり、運搬した土砂の量は約18万立方メートルに及んだとされる。

 これらの土砂は南田町、北田町などの城下町造成に活用された。山根専門官は「吉晴が築城を決めた時、この地は低湿地帯だったから、堀で排水した」と治水の狙いも指摘。さらに築城工事の物資運搬をはじめ、近代に至るまで水運や市民の暮らし、水利用に果たした役割に言及する。

 宍道湖や大橋川とともに、今や堀川は「水の都」の不可欠な構成要素、最も松江らしい風景の一つとなっている。

2010年6月28日 無断転載禁止