<9>藩政の中心だった二ノ丸

「藩政の中心」だった二ノ丸。御広間などの建物跡が平面整備されている=松江市殿町、松江城
米蔵などがあった二ノ丸下ノ段。恒例の松江城大茶会がこのほど開かれるなど、現在は人々に親しまれる広場になっている=松江市殿町、松江城
 松江城の二ノ丸は、天守のある本丸に次ぐ重要な曲輪(くるわ=区画)で、築城した堀尾家、続く京極家、その後を継いだ松平家の2代藩主綱隆(在任1666~75年)の時代まで、藩主はここに住んだ。

 平和な世の中だったおかげで、戦に備えた防衛施設である天守や本丸に藩主が足を運ぶことはなく、「増補松江城物語」(島田成矩著、山陰中央新報社刊)によれば、二ノ丸が築城以来の「藩政の中心」だった。

 本丸南側の南北約140メートル、東西約120メートルの区域に、藩主が政務に当たった「御広間(おひろま)」や居宅の「御書院(ごしょいん)」、御殿女中が住んだ「局長屋(つぼねのながや)」、「御月見櫓(おつきみやぐら)」などの建物が並んでいた。

 元禄期(1688~1704年)になると、島根県庁が今ある三ノ丸に御殿が造られ、3代藩主綱近は二ノ丸から三ノ丸に下りた。本丸より二ノ丸、二ノ丸より三ノ丸のほうが防衛上は危険だが、平和だったから、より便利で広い場所を選んだ結果-と同書は推測。以来、藩主が二ノ丸に住むことはなかった。

 本丸の東側、二ノ丸より低い広大な平地の二ノ丸下ノ段には、米蔵のほか、相続争いの罪で越後から流された老臣・荻田本繁とその子2人を監視しながら世話した「荻田長屋」などがあった。

 二ノ丸や下ノ段にあった建造物は、明治維新を経て1875(明治8)年に取り壊された。その後、二ノ丸には興雲閣(松江郷土館)や松江神社が建った。平成の世になり、三つの櫓が復元されたほか、発掘調査に基づき御広間跡などが平面整備されている。

2010年10月12日 無断転載禁止