中村元・人と思想(1) バニヤンの大樹のごとく

在りし日の中村元博士
 哲学、仏教…幅広く研究

 今年、2012年は東京大学名誉教授、松江市名誉市民で文化勲章受章者の中村元(はじめ)氏(1912~99年)の生誕100年にあたる。同市ではこれを機に文化人や経済人が故郷に中村氏を顕彰する記念館を設置する計画も進む。中村氏の人物像と研究業績を研究者に紹介してもらう。

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 世界的なインド哲学・仏教学者である中村元博士は、ちょうど100年前、松江市で生まれ、1999年、東京で86歳で亡くなった。

 博士が亡くなって5年後の2004年3月、インド・ニューデリーで、博士の業績を顕彰する「日印仏教哲学セミナー」が開催された。会場には博士の遺影と全40巻からなる「中村元選集〔決定版〕」など、幾冊もの著作が積み上げ展示されていた。

 セミナー出席者の一人であろうか、その遺影と著作の山に向かって五体投地の礼を繰り返すインド人がいた。床に伏せるように全身を投げ出し、拝み、祈る礼である。この光景は、いまも私のまぶたに強く残っている。

 博士の学問業績は、外国の研究者がこのように敬意をはらうほど偉大であり、その領域は極めて広い。インド哲学、仏教学から比較思想、歴史学などにわたり、年代的には古代から現代に至る。

 地理的には日本、インド、中国、韓国からヨーロッパまでユーラシア大陸全域に及んでいる。広いばかりではなく、各学問領域での一番槍(やり)を目指し、斬新で、独創的・先駆的な研究を遂行した。

 博士の学問上の特筆すべき功績の一つは、世界の研究者に先駆けて4巻からなる「世界思想史」を完成したことであろう。博士はこの大著の最後に以下のように記している。 

 「われわれは以上の考察によって人類が一体なることを知り得た。思想は種々の形で表明されるけれども、人間性は一つである。

 今後世界は一つになるであろう。…世界の哲学宗教思想史に関するこのような研究が、地球全体にわたる思想の見通しに役立ち、世界の諸民族のあいだの相互理解を育てて、それによって人類は一つであるという理念を確立しうるにいたることを、せつに願うものである」

 このように結び、世界平和への熱い願いを表明している。

 さらに、一般の人々にも大きな恩恵をもたらした顕著な功績がある。それは難解な漢字、言葉が多く、縁遠い存在だった仏典や仏教辞典などを、日常的な現代日本語で表すのに大きな努力を払ったことである。

 その成果の一つが、「ブッダのことば」「ブッダ最後の旅」などの原始仏典の平易な翻訳である。いまひとつは信頼できる「広説仏教語大辞典」である。本も容易に入手でき、一般読者にとっても、専門家にも一大福音である。

 かつて私は、わが恩師である博士の学問の世界を、バニヤンの大樹に例えたことがある。バニヤンはインド各地で見られるクワ科の木で、巨大なものも多い。

コルコタ・インド植物園内の大バニヤン樹
 世界一大きなバニヤンは、インド・コルコタのインド植物園にある。一本の樹なのだが、樹冠420メートル、高さ24・5メートルもあり、大きな森のように見える。

 バニヤンは中心になる幹から横に枝がのび、この枝から気根が出てたれ下がり、地面に達し、さらに地中にのびて木の根となる。

 この気根はやがて幹に変身、ここから枝がのび、新たな幹となる。それぞれが太い幹のように地中に根を張り、一本一本が独立した大木のように見える。

 強烈で容赦なく照りつける太陽を、豊かな緑でさえぎり、人々に涼しい木陰を提供する。インドの人々がこの木を神聖視しているのもうなずける。

 中村元の世界とは、バニヤンの大樹のごときものかと思う。インド哲学を基軸に形成され、生き生きと繁茂し、無限に成長し続けて、人々に知の恵みと安らぎをあたえる。

 豊かで慈しみあふれる博士の広大な世界を、読者の方々とゆっくり訪ねてみたいと思う。

 (敬称略、東方研究会理事長・前田專學)

2012年4月6日 無断転載禁止