中村元・人と思想(2) 根底には「慈悲」

中村博士(左)と執筆者
 社会的実践の根拠論証

 1970年代中ごろから、私は10年余りにわたって、NHK「宗教の時間」のレギュラー司会者を務めた。この番組には、全国から著名な学者や宗教者が東京に出て来て、なかなかお会いできないような方とも出会えた。私にとっての大きな財産となっている。中村元(はじめ)博士もしばしば登場、1年がかりのプロジェクトも含め、50回くらい私が聞き役を務めた。

 強く記憶に残っている一つは、鎌倉期の忍(にん)性(しょう)律師(1217~1303年)について、博士が話された様子である。忍性は日本仏教の中では、ユニークな社会活動を展開した僧である。今も奈良市に残る「北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと)」という日本最初のハンセン病患者への施設を建てている。患者の一人の病が進み、町に食を乞いに行けず飢えかけた時、忍性は彼を背負って町に行き、食を得させ、また背負って帰ってきた。この患者は死に臨んで「自分は必ずや再生して忍性律師に仕えたい。その証拠の一つとして、顔に痣(あざ)を残すから」と言い置いて亡くなった。後年、果たして忍性の弟子に顔に痣があるものがおり、かの患者の生まれ変わりであると話題になった、という。私の知る限り、博士はこのエピソードを前後3回テレビ番組で語っている。

 博士は、忍性がハンセン病の患者を背負って町まで往復した行為に大変感激されていたとみえ、最初の時には、思い入れたっぷりで話されたのが印象的だった。数年して博士はまたこの挿話を使った。話をした時、ごくわずかだが言葉に上ずった感じがあり、そっと博士をみると、目の縁が赤くなっていた。そのまた数年後、3回目のこのエピソードを聞いた。この時、視聴者は気づかなかっただろうが、博士の目のふちにわずかに涙らしいものが浮かんで、すぐ消えた。私は博士の「慈悲」という行為への深い思い入れを、肌で感じたように思った。

中村元著「慈悲」と「温かなこころ」
 1956(昭和31)年という早い時期に、中村元は「慈悲」と題した本を著している。ここでは原始仏典を中心として、仏教思想の基本、特に社会的実践の根拠が慈悲であることを幅広く論証している。晩年になっても、その世界思想、比較思想の根底に、慈悲を大きなテーマとして取り上げている。

 同時に、こんなエピソードに見られるように、慈悲は中村元の人柄を特徴づけるものでもあった。思想とか哲学とかを議論する以前に、慈悲は博士にとって早い時代からの関心事であり、人間の在り方として彼の中に育ち、熟していたのであろう。

 この連載の最初の回(先週金曜掲載)で、前田專學氏が、中村元の世界をバニヤン樹にたとえていた。バニヤン樹はただ1本の木が、枝を張り出しながら四方に広がっていく。中村元の学問も継承され発展しながら、豊かな思想の木陰を広げていく。まさにバニヤンの樹のごとくである。広大な中村元の世界を見渡した時、その思想、世界観の根幹にあるのは、慈悲ということである。

 東洋・仏教思想において、ユニークな発展をみせてきたのが慈悲である。この探求こそ、未来に向け、新しい普遍的な世界観を模索していく際に、大きな方向性を与えるものである。別の言い方をすれば、慈悲を根底に据えた中村元の世界をあらためて学ぶ重要性が、ますます高まっているのではないかと思うのである。

 (敬称略、東方研究会常務理事・奈良康明)

2012年4月13日 無断転載禁止