中村元・人と思想(3) 松江に生をうけて

父に抱かれて
 終生故郷への愛情厚く

 松江城の北地区を案内する「お城の北 道しるべ」というパンフレットがある。地元公民館が作成したもので、地図とともに一帯の散歩道を紹介している。地図の奥谷という地に、小さく「中村元(はじめ)宅跡」という記載がある。ごく短期間だが、中村元が幼少の時期を過ごした、彼の実家があった場所である。

 中村元は1912(大正元)年10月28日、父・喜代治と母・トモの長男として生まれた。生まれたのは母の実家があった松江市殿町。現在の島根県民会館の隣あたりである。元という名前は、大正元年生まれであることと、小学校に入った時に書きやすいという理由から父の喜代治がつけた。

 奥谷町にあった中村家の近くには、菩提(ぼだい)寺である真光寺のほか、万寿寺や田原神社など多くの寺社がある。また小泉八雲記念館、明々庵、武家屋敷跡といった観光名所も近く、かぎ形の道や古い家並みが懐かしさを感じさせる一帯である。

 中村家の敷地は千坪ほどもあった。明治維新後、幸運にもこの地に職を得てとどまることができた中村の祖父が、没落士族たちから頼まれて買った土地であったという。奥谷の家で中村が暮らしたのは、わずか1年余りである。彼が数え年で2歳の時、父親の仕事の関係で、一家は東京に移り住んだからである。

奥谷の「中村道」にて
 恐らく、幼少時に帰省した折の記憶であろうか。家の近くにあった泉の水がとても澄んでいて、その水が流れている家の前の溝には、オタマジャクシがいたことを、中村はよく覚えているという。その後も法事など、ことあるごとに帰郷。戦時中には召集され松江第63連隊で兵役に就いた。

 戦後も島根・松江との関わりは深く、中村はしばしば故郷を訪れた。長女・純子によると、後年、島根を訪れた際には「辺ぴな地まで、さまざまな方を訪ねて行っていたようです」と言う。懐かしさだけでなく、人々の奥ゆかしさ、細やかで厚い人情味を残すふるさとの地を中村はこよなく愛したようで、この地を次のように語っている。

 「表には現われないが、山奥にひそむ渓流のような清らかな精神、― これが島根県にはまだ残っているように思われる」(和の心 日本の美 松江)

 しかし1937年、中村はこの愛着ある地にあった、先祖伝来の土地と家を手放している。この年、父・喜代冶が死去。4人兄弟の長男だった中村は、まだ成人していない弟たちと母を養う立場となった。しかし、大学院生だった中村の生活は貧しく、さらにこの年、盧溝橋事件が発生、中村も召集を受けた。土地屋敷の売却は、仕方のない選択だった。

 先祖伝来の土地を手放したことは、中村にとって痛恨の出来事だった。後に中村は、できればこの家・土地を買い戻したいと願い、松江に赴いたこともあった。しかし、そこには雑草が茂るだけで、この時ほど「自分がさすらいの流れ者であることをしみじみかみしめた」(学問の開拓)ことはなかったと記している。長女の純子は「このことは、私たち子どもが大きくなったころまでも、ずっと気にしていた」と語る。

 晩年、松江の旧居跡を訪ねた時、中村は地元の人と声を交わし、旧居の前の小道が「中村道」と名づけられていることを知る。

 中村は何か贈り物をする際、多くの場合、松江の菓子を送った。故郷への応援であり、祖先以来の地に対する愛情の証しでもあった。「島根・松江の人間である」との思いは終生、変わることがなかった。

 (敬称略、東方研究会研究員・上野敬子)

2012年4月20日 無断転載禁止