中村元・人と思想(4) 中村家松江に300年

中村家の家族写真(後列左側が長男・元)
 教育者の両親礼節に厳格

 松江における中村家の歴史は、1638(寛永15)年、初代松江藩主の松平直政が信州・松本から、この地に移って来た時に始まる。中村家の初代・重義はもともと、後に直政の守役となった朝日丹波に仕えていた。丹波は直政とともに松江に入り、それに従って重義も松江に入った。3代将軍・家光の時代、天草の乱があった時である。朝日丹波の没後、中村家は松江藩の家老神谷家に仕え、与力侍の家柄として続いた。砲術などにも熱心だったようで、7代目・則吉の時には取り立てられて隠岐の警護役にも就いている。

 中村元(はじめ)の祖父である8代目の秀年の時に明治維新を迎えた。秀年は藩校で国学を教えていたが、幕末には藩軍の大隊長を務めていた。維新は武士階級の生活を大きくゆるがせ、とりわけ徳川家親藩だった松江では、多くの藩士が職を失うことになった。幸いにも秀年は維新後、島根県の行政官の職を得て一家離散は免れた。しかし、秀年の周囲でも没落するものがあり、「士族の商法」で家産を傾ける親族もあった。

中村家伝来の甲冑(かっちゅう)を入れる鎧櫃(よろいびつ)(正面に「丸に釘ぬき」の家紋が入る)
 1884(明治17)年、中央から派遣される新県令の着任にあたり、島根県出身の官吏が一掃されることになった。優秀な行政官であった秀年もこの時、免官となる。彼は帰農する心積もりでいたが、誰の推挙があったのか、一転して秀年に川本(島根県中部)の郡長への辞令が下る。思いがけない展開に、秀年も大変驚いたという。以後、飯石郡長、島根第一大区長といった要職を20年余にわたって勤めた。

 秀年には男子が4人あった。しかし、他家に養子に出した三男を除く3人がいずれも早世したため、跡取りがいなかった。彼は親族の中で一番気に入っていた姪(めい)(妹トヨの長女)の高橋トモを養子に迎え、家を継がせた。元の母である。

 トモは当時、松江に設立されたばかりの松操高等女学校(現在の県立松江北高校の前身の一つ)の第1回卒業生である。優秀だったトモは卒業と同時に母校の助教諭に任じられ、結婚までの10数年、数学を講じた。

 元の父である喜代治は香川県の生まれである。松江の県立農林学校の助教諭として赴任していた時に養子の話が持ち上がり、トモと結婚、中村家に入った。「純朴で、お人よしのところがあった」と元は言っている。結婚後、トモの義兄に「晩学の人でも受け入れているから」と勧められ、東京の物理学校(現・東京理科大学)に入学した。

 両親は教育者だったが、子どもたちの勉強に対して干渉がましいことは言わなかった。ただ、トモは旧幕時代の遺風を残す旧家に育ったせいか、礼節には厳格だった。後に移り住んだ東京では、近所で「中村の家では、子どもが親に対して他人に対するような言葉を使う」と言われるほどだった。

 そんな厳しさの一方、トモは他人に対しては非常に親切で「自分を無にしてもヒトに何かを与えた」(学問の開拓)と、元は母のことを記している。喜代治は大学で数学を修めて卒業するが、松江には戻らず、アクチュアリー(数理統計技師)として東京の保険会社に就職した。確率論や統計学を用いて将来のリスクなどを分析する仕事である。

 これを機に、一家は居を東京の本郷西片町に移すことになる。1913(大正2)年、元が数え年2歳の時である。中村家は、300年近く住んだ松江の地を離れることになる。

 (敬称略、東方研究会研究員・佐々木一憲)

2012年5月4日 無断転載禁止