中村元・人と思想(5) 幼・少年時代

真理追究の出発点。小学校入学時の中村博士
 哲学宗教思想への傾倒

 生まれて2年足らずで、中村元(はじめ)は松江を離れ、東京に移った。父親の転勤のためである。一家は、伯父や叔母が住んでいた文京区の本郷西片町に落ち着いた。一帯は静かな住宅地で、大学や旧制高校の教授たちの家が多い学者町であった。上品な家庭が多く、子どもたちもおとなしかったという。

 第1次世界大戦が終わり、講和会議が開かれた1919(大正8)年、中村少年は自宅近くにある誠之小学校に入学した。1875(明治8)年創立の名門校である。この学区にはかつて、学校にもゆかりのある夏目漱石や樋口一葉などが住んでいた。

 誠之小学校の校長室には、開校百周年を記念して、同校を卒業した著名人が寄せた色紙が飾られている。この中に、中村がサンスクリット語で書いた色紙がある。「サトヤム・エーヴァ・ジャヤテ」と記していて、「誠のみが勝つ」「真理(真実)のみが勝つ」などと訳される。

 この言葉は、古代インド哲学の教えである。中村がこの言葉を贈ったのは、恐らく学校名の「誠之」にちなんだものだろうが、この文言は中村自身が終生大切にしたものである。そして、インドの国章の中にもこの言葉は刻まれている。

 その幼・少年時代、中村少年は格別目立った子どもではなかったようである。自ら「勉強することはひとりでに身についたよう」で「遊びにまつわる記憶ははなはだ乏しい」(学問の開拓)と記している。活発に外で遊ぶ子どもではなく、穏やかな少年であったらしい。

中村博士直筆の色紙(誠之小学校校長室)。誠の心を重んじた博士の思いが伝わる
 ただ、小学校の勉強では歴史が好きで、その関係の本をよく読んだ。「歴史に幼い関心をいだいたのは、叔母(母の妹)の影響があったかもしれない」と言っている。中学校は、現在の文京区大塚にあった東京高等師範学校付属中学(現・筑波大学付属高校)に入学をした。しかし、すぐに腎臓を患い、1度も登校することなく、1年間自宅で病床に伏さなくてはならなかった。これは少年の心に大きな影響を与えた事件であった。こんな体では世の中でまともな活動はできないのではないかと、なかば絶望的な毎日を送ったという。

 おのずと、世間に一定の距離をおいて見つめる傾向が生まれた。病から回復した後の中学生活では、体操や運動ができなかった。自然と読書に関心が向かい、哲学書や宗教書の類いを「読みあさるようになった」という。すでに、当時の風潮では、若い男子が書物に熱中することは好ましくないとされていた。その中でも哲学、宗教書を読む学生は「『危険人物』のように見られた」という。

 中村少年が愛読した書は、主に反骨精神に富んだ独創的な思想家や哲学者のものだった。宗教に関係した書としては、親鸞(しんらん)、道元など、いわゆる日本仏教の祖師たちの伝記や、彼らの著作、入門書、解説書の類いが多かった。小説などは関心の外だったが、ただ、哲学や宗教に通じる小説は、読むように心掛けたという。

 この時期に影響を受けた書として、中村は「哲学行脚」(北昤吉)、「象徴の哲学」(土田杏村)などを、また「出家とその弟子」(倉田百三)、「大菩薩峠」(中里介山)などを挙げている。すでに哲学、宗教、思想への傾倒があったのである。生涯を貫いた中村博士の姿勢は、中学時代の病に伴う絶望の中から形成されたということができる。

 (敬称略、スリランカ国立ペラデニア大客員研究員・釈 悟震)

2012年5月8日 無断転載禁止