中村元・人と思想(6)一高時代の師たち

第一高等学校に入学したころ
 研究体系の基盤築く

 中村元(はじめ)の学問の大きな特徴の一つは「世界的視野」に立った思想の論究にある。そして中村は、思想とは専門家の独占ではなく、万人が納得でき、万人の批判に耐えられるものでなければその普遍的意義はない、という姿勢を終生持ち続けた。

 こんな中村の意識の源は、彼の青年期にまでさかのぼることができそうである。中学・高校時代を通じて、彼はよき師たちと出会っているが、とりわけ、1930(昭和5)年に入学した第一高等学校(文科乙類、東京)では、自ら「私の学問の骨格をつくって下さった」(私の履歴書 知の越境者)と言う2人の恩師にめぐり合った。

 歴史・地理を習った亀井高孝と、論理学・心理学の須藤新吉である。2人の持つ世界的視野と明快な論述が、やがて中村の学問の基本となる。

 亀井高孝の専門は歴史学だった。しかし、彼の研究はありきたりの「歴史学」の範囲に収まるものではなかった。「世界地図を頭の中におきながら進められた東西交渉史」(比較思想の先駆者たち)ともいうべき内容であった。「学者はね、『独創』ということがいちばん大切だ」と、亀井はよく中村に語った。

 後年、中村の代表作の一つ「東洋人の思惟(しい)方法」が出版された時、広い視野に立った独創的な研究ゆえ、専門分野を逸脱しているという批判もあった。しかし、その批判を「違う」と言ってくれたのは亀井だった。欧米ではセクショナリズムを打破するため、専門分野の学者たちが連携すべく努力している、と激励してくれた。

一高卒業の記念写真
 「もし私の研究に従来の研究とは異なった新しいものがあったとしたら、それは先生に負うところが大きい」(私の履歴書)と中村は語っている。

 須藤新吉は、生徒の間で「温厚な先生」として慕われていた。しかし「ヴントの心理学」「論理学綱要」といった名著を著し、その研究は高くそびえ立っていた。

 哲学には当時も「わけのわからぬことを難しく表現する」というイメージがあったようである。しかし、須藤の著作は「論述が明快で、一点のケレン味もない」(比較思想の先駆者たち)ものだったと中村は言う。

 中村の遺作となったのが、「論理の構造」2巻である。これは、洋の東西で異なっている論理学をどのように連絡づけるか、という未踏の課題に挑んだ大著である。きっかけの一つは、若い時代に受けた須藤の教えだった。最晩年、この執筆に苦労していた中村は自分の前に立ち「手を向けて招いてくださっている」のは、この恩師であったと記している(同)。

 仏教の話を、中村が学校教育の場で初めて聞いたのも高校時代である。面白いことに、それはドイツ語の教師からであった。仏教研究者でもあったブルーノー・ペツォルドからドイツ語で仏教の話を聞いたことで、中村は仏教を思想的なものとして明確に理解できるようになったという。

 例えば、仏教には「縁起」「涅槃(ねはん)」といった独特の言葉がある。これらは、他の言語に翻訳されることで、その意味を一般的な次元で捉えられるようになる。仏教が普遍的な意義を持つ可能性がでてくるのである。

 この経験は、中村の仏教理解に影響を与え、多くの思想研究法の基礎となった。やがて「仏教語大辞典」を編さんするきっかけの一つにもなった。師たちと出会い、中村は壮大な研究体系の基盤を築いていった。

 (東方研究会・研究員・上野 敬子)

2012年5月14日 無断転載禁止