中村元・人と思想(7)高校時代・東大印哲科に

一高時代の仲間たちと中村博士(中央)
 支える友人達と出会う

 第一高等学校の3年間は、中村が生涯を通じての友人たちに出会った時でもあった。酒も飲まず、格別な趣味もない中村に、飲み仲間や遊び友達はいなかった。しかしこの時期、中村が親しく付き合った友たちは、その後も連絡を取り合い、後に中村が困難に直面した時、常に彼を支えてくれた。

 卒業して30年余り後、中村が精魂を込めた「仏教語大辞典」の3万枚に及ぶ原稿用紙が紛失するという事件が起きた。この時、ともに心を痛め、再執筆に向け、援助を申し出てくれたのは、中村敏夫をはじめとする一高時代の友人たちであった。

 さらに後年、東方研究会・東方学院を設立した際にも、これら仲間が中村を助け、協力してくれた。彼らとの出会いは、中村にとって一生の宝であった。1933年、中学・高校時代を通じて東洋哲学、仏教への興味を深めていた中村は、自然に東京帝国大学印度哲学梵(ぼん)文学科に入学する。

 「印哲」と呼ばれた学問分野は、卒業しても就職の当てなどなかった。周囲からは「異様なことをやる」という目で見られた。しかし、両親は中村の選択に対して寛大であった。

 教授陣は、インド哲学を宇井伯寿、パーリ語・原始仏教を長井真琴、大乗仏教を宮本正尊、サンスクリットを福島(辻)直四郎、チベット語を池田澄達が教えていた。

 主任教授の宇井伯寿は、日本におけるインド哲学・仏教学の骨組みを形作った人。学部・大学院における中村の指導教授でもあった。文献講読においては、原文の一字一句もなおざりにしなかった。こんな宇井の読解から、中村は学問に対する厳格な態度を学んだ。

 厳しさの一方で、宇井は思いやりが深く、「親切や愛情を口にされるのではなく、行動によって示され…だれかが窮地に立つ場合には力強くかばって護ってやられた」(東方の英知)という。表立ったことを好まなかった宇井は、文化勲章の授与式や他の国家的な栄誉受賞の祝賀会にも出なかった。

 「明治の人によくみられる強い正義感、道徳観、特に責任感が、先生の場合には一身にみなぎっていたようで、思わずえりを正すことがあった」(私の履歴書)と中村は語っている。

 書籍に囲まれた中村の自宅書斎で、宇井の著作は机の前、目上の棚に整然と並べられていた。中村の師に対する思いの表れである。

 2年生の時、京都から和辻哲郎が転任してきた。印哲の中村は、哲学科の和辻の講義に出席する機会は少なかったが、個人的には多くの教えを受けた。

 初めて会った時、和辻には「まあ、自分で納得のいくようにやってみませんか」と言われた。これは「世の仏教学者が自分でもわかっていない術語や教理をもてあそんでいた」(同)ことに対する批判であったと中村は述べている。

 「学者は特殊な、珍しいテキストを取り上げて、鬼の首でも取ったようにして、それを論ずる。しかしありふれた古典の中から思想をえぐり出すことが必要ではないか」(同)。和辻が日本倫理思想史の演習で語った、この言葉は、中村の心に長く残った。

 和辻の学問は広大で、かつ深かった。その研究は、いかに多岐にわたろうとも「個別的事象をその普遍的意義において解明する」(比較思想の先駆者たち)ものであったという。これは、後の中村が一貫して目指し続けたことでもあった。

 (敬称略、東方研究会研究員・上野 敬子)

2012年5月24日 無断転載禁止